七 四月七日 - 1/2

せっかく上手くいきかけていたのに、容易く崩れていく。
違うか。このまま上手くいくと思っていたのは、間違っていたのは僕だけか。


 それぞれ悲喜こもごもを抱えつつ、とにもかくにも試験を無事に乗り越えた五人はめでたく全員二年に進級した。
 とはいえ生活は然程変わりない。新しく入ってきた一年生があっちにうろうろ、こっちへぱたぱたと行き交うのを廊下の窓から見下ろしつつ、ちょうど昨年の自分達もあんな具合だったなと感慨に耽っていた。
「おれ達、すっかり東京人だな!」
 最近訛らなくなってきただろ、そう言って野宮は胸を張った。たしかに聞き返すことが減ってきたなと思う。
「東京人? よう言うわ、ついこの間もひとりで出かけたきり散々迷子になって門限間に合わへんかったくせに」
 隣の建物とうちの校舎の区別、ついとるんか? ちゃんと市電は乗れるんか? ニヤニヤと試すような目つきで桝谷が笑う。
「瑞生こそ、いっつまでもその大阪弁」
「これは俺のプライドや! 変える気はあらへんで」
 一年が経ち、桝谷と野宮のコンビ感はますます強まってきたように思う。教師ではなく芸人になっても十分食っていけそうな勢いだ。

「そんなことより、さ。監督生就任おめでとう、平野君」
 ボケとツッコミに忙しい二人は放っておいて、本江は相変わらず穏やかに眺めているだけの友に祝福の言葉を向けた。
「ありがとうございます。……本当に僕でいいのか、まだ不安なのですが」
「何言ってるのさ、平野君が選ばれたことに文句を言う奴はいないと思うよ」
 二年生になって、本江達は下級生を指導する立場になった。その中でも寮内で指導の中心的存在になるのが監督生で、品行方正で成績の良い数名が寮監と学校長の推薦によって選出され、寮内のお目付け役となる。言わば寮監と学生の橋渡し的存在だ。監督生に選ばれるかどうかは厳密に言えば成績だけではないのだが、少なくとも平野が選ばれたことに異を唱える人間はいないだろう。
「平野クンが監督生なんて、今年の一年は随分と恵まれとるなあ。俺らなんて去年の今頃は毎朝毎晩、上級生の部屋の残灰処理……」
 思い出すのも憂鬱だというように桝谷は首をふる。
「あれは僕もうんざりでした。間違えて軍隊に入ったかと思うほどに」
 珍しく気が合いますね、と原島。
「冗談じゃない、桝谷も原島も逃げてばかりだったじゃないか。僕と平野君でほとんどやってたんだからな」
 今では懐かしい思い出と言えるくらいに、時が経つのは早い。目まぐるしいと言ってもいいくらいだ。
「平野クン、ものは相談なんやけどな? ちょこーっとだけでええから、門限遅なったりせえへん?」
「監督生になったからには、同室でも規律違反は駄目ですよ。見てますから」
「怖っ! 大目に見てやー」
 冗談です、と平野は笑った。教師にも学生にもあたり良く接することのできる彼ならば、きっと上手くやるだろう。
 唯一不安なのは、役目を全うせんがために無用な心労を抱えやしないかということだった。せめて愚痴の吐き出し先くらいにはなろうと、本江は密かに心に誓った。

 二年生になっても部屋は相変わらずのハズレ角、今朝も新学期早々奥の部屋への伝令係としてこき使われたばかりだ。明日からの授業に備えて部屋の掃除でもしようかと、五人は連れ立って講堂から戻ってきた。
「あれ? 寝台がひとつ増えて……」
 ドアを開けるなり原島が首を傾げて声を上げる。
「ンなわけあるかいまだねぼけとるんとちゃうか……って、ホンマや」
 講堂で集会に参加しているうちに、今朝まではなかった寝台がドアの横にひとつ増えている。よく見ると机もひとつ窓辺に増えていた。無理矢理に詰めて場所を確保したのか、床に置いていた屑入れが机の上へ避難させられている。
「誰か来るんか?」
 新しく増やされた机の上には見慣れぬ学生鞄がひとつ置かれていた。使い古してボロボロのそれは、どこか気難しげに鎮座していた。
「皆、少し聞いてほしいことが……」
 機を窺った平野がおずおずと言い出すのと、ノックもなくドアが開けられるのはほぼ同時だった。
 片手に教科書を山と抱えた見たことのない男子生徒が、寮監に連れられて入ってきた。制服も師範の黒の詰襟ではなく、紺地に金釦、見たことのない校章の入ったものを着ている。
「二部の編入生だ。指導は平野に一任する」
 寮監はそれ以上何の説明をする気もなく、ドアをきっちりと閉ざすと靴音を響かせて階段を下っていった。後には見知らぬ男子生徒と呆気にとられた五人だけが残された。
「すみません、僕も先程聞かされたばかりなのですけれど……こちらは播本はりもと和貴かずたか君、二部の編入生で、今日から僕達と同室になります。学年は同じ二年生です」
 平野がさっきから何かを言い出す機会を探していたのはそれか、とようやく合点がいった。
 本江は改めて編入生を見た。短い黒髪をきっちりと耳の横で撫でつけた、生真面目な印象の学生だ。背丈は桝谷と同じくらいか少し上、しかしひょろりと細長い印象で、桝谷の方が体格がいいように見える。
「そうかそうか! 突然で驚いたわ。はじめまして、俺は桝谷瑞生ていいま……」
「播本和貴。よろしくするつもりはないから」
 ぼそりと名乗った編入生は自己紹介をする気などさらさらないといった様子で、抱えた教科書をどさりと邪魔そうに机に置いた。
「……はい?」
 出鼻を挫かれた桝谷がぽかんと口を開ける。
「すまん、よう意味がわからへんかった。ええと、播本クン?」
「何度も言わせるなよ。あんたらと、仲良くする気はないから」
 桝谷の顔から途端に愛想のいい笑みが消えた。
「……なんやねん。感じ悪」
「ちょっと、耳打ちなんてそれこそ感じ悪いですよ」
 珍しく原島が宥めたが、桝谷の行き場のない憤りは収まらないらしい。
「感じ悪いんはこいつの方や! なんなん、『仲良くする気はないから』て。おかしいやろ」
「初日なんですから、不安なことも多いでしょう」
 二人がごちゃごちゃと耳打ちに耳打ちを重ねている間に、新入りはすっと五人の前を無言で通り過ぎると、ばたんとドアを閉めて出ていった。振動で床がびりりと揺れて、新品の教科書の山が傾いた。
「これはまた、一難ありそうだね……」
 途方に暮れて本江は平野を見遣る。やはりこうなったか、という顔で平野は苦々しげに目を伏せた。ここに来るより先に平野は顔を合わせていたのだろう。
 なんとなく嫌な予感がしていた。長らくなかった、厄介な騒動が起こる気配だ。