五 拾月三日 - 1/2

夜更けにふと目が覚めた。呼ばれた気がして筆を執った。
みんな、ありがとう。おれ、幸せだ。


 校舎を取り囲むように植えられた紅葉もみじや楓が鮮やかに色づいて、やがて次の季節へと散っていった。足元には色鮮やかな絨毯が広がり、師範生達は毎朝さくさくと秋の足音をさせて教室へと向かった。
 日に日に朝晩冷え込むようになっていた。霜の降りたある朝に、本江は寝台の下に押し込んでいたトンビコートを引っ張り出した。春に荷解きをしたときからしまいっぱなしだったコートの袖口には小さな穴が開いている。どうやら虫に食われたらしい。

 近頃野宮の様子がおかしい。普段から熱心とは言い難いが、期末試験が近いというのに以前にも増して授業は上の空だ。あんなに熱心に活動していた雑誌部も最近はとんとご無沙汰らしい。まさに心ここにあらずといった風だった。
「なあ。あいつ、なァんか隠してへんか?」
 広げた教科書に目を落とし、くるくると鉛筆を弄びながら桝谷が言うと、
「隠してますね」
 同じく教科書から目を上げずに原島。
「またなんかやらかしたんやろか」
「今度という今度は、僕達にも話せないくらいのことなのかもしれませんね」
 この二人、真面目に勉強しているようでさっぱり集中していないな、と本江は思った。……二人の会話がすっかり耳に入ってきている自分が言えたことではないのだが。
「口から先に産まれたみたいな野宮が、なんかおかしい、くらいで済んどるのがそもそも妙なんや」
 気になる、気になって夜も眠れへん。おかげで授業が眠とうてしゃあないわ。桝谷はこつこつと鉛筆で机を叩く。
「ただいま……」
 そんな会話の最中、まさにという頃合いで野宮が帰ってきた。相変わらずぼんやりと半分宙に浮いているかのようで、目の前もちゃんと見えているか怪しい。
「噂をすれば、ですね」
 一斉に視線を向けられて、野宮はなに、なんかついてる、ときょとんとした。
「もう黙っていられへん!」
 がたんと大きな音をさせて椅子から立ち上がると、桝谷は入り口に突っ立ったままの野宮に大股で近づいた。
「なに、なんだよ?!」
「野宮クン、きみなんか隠してるやろ」
 至近距離からじっと見つめられて、野宮はわざとらしく目を逸らした。明らかに何かある、と言っているかのようである。
「な、なんも隠してなンかねぇよ」
「嘘つけェ! 課外活動も出んと毎日どこいっとるんや」
 こういうときの大阪弁は迫力がある。野宮でなくても正直に話してしまいそうだ。
「そっだことなンだっていいだろ! 崚がどっか出かけるみたいに、おれだってたまにはひとりで……」

「喫茶ロヂエ」
 一触即発、いやもう爆発している部屋にぽつりと落ちた言葉。原島の声は妙によく通って部屋に響いた。
 びくん、と野宮の身体が大げさなくらい飛び上がった。
「ロヂエ? ああ、たしか祭の日に入った喫茶店やな。そこがどないしたん?」
 原島は顎で野宮を指す。彼に訊け、ということらしい。
 聞かずともいいくらいにわかりやすく、野宮は目を合わせようとしない。何か図星であったと一目瞭然である。
「お洒落な喫茶店で何しとるんや、え? おにーさんに言うてみ」
 桝谷はニヤニヤと詰め寄ると、野宮の震える肩にぽんぽんと手をかける。まるで借金取りだな、と本江は思った。
「か、関係ねぇだろ!」
「逢引か? 逢引なんやな?」
「ち、ちが! そったンでねぇ!」
 野宮はほとんど泣きそうだ。

「好いたお人でも、できたのですか?」
 突然の平野の言葉に全員が振り返った。聞いていたのか、と本江はそっちに驚いた。まあこれだけわいわい騒いでいたら嫌でも聞こえるだろうとは思ったが。
 声を発した当人はそこまで驚くことですか? という顔をしている。言葉の内容は桝谷と同じなのに、この差はなんだ。
「……半月前くらいに街サ出て、帰りにふと気が向いて寄ったンだ」
 野宮は観念したように話し出す。
「入って、カウンター座って、そしたら注文とりにきた女給さんに声かけられたンだ。ご注文は? おれは顔上げて、そンで――」
「それで?」
「好きに、なってまった」
 桝谷の手から鉛筆が落ちてからんと転がった。
「すき、て」
 野宮は真っ赤になって俯く。
「ひと目惚れか?!」
「み、瑞生、どしたら、どしたらいい……おれこったの初めてなンだ」
 一度言ってしまえば、野宮はおろおろと桝谷に縋りついた。
「そんなん簡単や! もういっぺん行く、行って今度は話す、それだけや」
「そっだことできねぇ!」
「ほな何のために惚れたん!」
 桝谷も随分と横暴だ。
「おれ、女の人とまともに話したことね……言葉もこっただし……」
 嫌われたくない。野宮は蚊の鳴くような声で言った。
「ほな、皆で行ったらええやん。友達連れてきたら、その子もきっと喜ぶで」
 野宮の複雑な迷いを敏感に感じ取って、桝谷は途端に優しい声に切り替えて宥める。
「え、僕らも行くんですか」
 しかしその気遣いをぶち壊すような原島の冷たい声。
「あったりまえやろ! 友の青春の瞬間に立ち会わんでどないするんや!」
「そこは二人きりにしてあげるのが友人として正しいのでは」
 冷静がすぎる原島と、勝手に大盛り上がりで止まらない桝谷。当事者であるのに板挟みにされて泣き出しそうな野宮と、ついていけずにきょとんとする平野。僕としては、見目も良くて物静かな平野にその子がうっかり惹かれてしまわないか些か不安だったりする。……なんて、本江は口が裂けても言えなかった。
 そうして、なんだかんだで全員で喫茶ロヂエに再訪することになったのである。