友と見上げる夏の終わり、宵花火。こういうものを青春と呼ぶのだろうか。何十年か経った後も、この日は同じ色をして記憶のどこかに眠っているのだろうか。
野宮君へ。いつか自伝を書くことがあったら、この日のことも書いてくれよ。なんて。
「路地裏の古書店が安売りしているなんて言ったのは誰でしたっけ」
原島の口から、もう何度目になるかわからないため息と嫌味が零れる。
「確かな筋からの情報だったンだって! ほんとだって!」
信じてくれよ、と泣きつく野宮。これを見るのももう何度目だろうか。
「問題は情報の真偽ちゃう。情報の速度や。俺らはあまりに遅すぎたんや」
じわじわと蝉の鳴く通りに、桝谷の悲壮な呟きが汗とともに落ちた。
夏季休暇の明ける一週間前のこと。うだるような暑さの中、ハズレ角の面々は後期授業の教科書を買いに揃って街へ出た。
普通に街角の書店で購入すれば半日もあれば全て揃うはずなのだが、貧乏な学生に全てを定価で揃える財力はない。卒業を控えた先輩から譲ってもらったり、古書店に売り捌かれたものを地道に探してくるといった、根気のいる方法で手に入れることになる。野宮がいい店を知っている、というので喜び勇んで出かけたが、辿り着いたときにはもう目ぼしいものは狩り尽くされた後であった。
「安い印刷会社を紹介してもらう代わりに、店の宣伝を学内誌に載せた、と。それは売り切れるに決まってます」
「そないな情報はもっと早急に、広告が出る前に内密に教えんかい! 何のために同室なんや」
原島に小言を言われ、桝谷に詰め寄られ、野宮はいよいよもって顔をくしゃくしゃにした。
「ひどいな、おれはただの情報提供者か? 仕方ねぇだろ、おれだって戻ってきたのは二日前なンだよっ」
野宮の言い分も尤もだった。二人が言いすぎる前にと、本江は慌てて擁護に回る。
「野宮君の家は遠いからね」
「列車ば乗り継いで一週間、そっから馬で二日、最後に徒歩で半日だ」
それホンマか? 隣で聞いていた桝谷が目を丸くした。
「まるで参勤交代みたいやな」
「こンでも随分楽になった方だ。まだまだ未開の地だけンどな」
「帰省の度に開拓しとるんか」
ばかにすンなよぉ! と野宮はばしばしと桝谷の肩を叩く。言葉とは裏腹になんだか楽しそうだ。彼も久々に友人と会えて嬉しいのだろう。
「で、休暇はどうだったの」
本江が尋ねると、その言葉を待ってましたとばかりに野宮は笑みを溢れさせた。
「久々に弟妹サ会えて嬉しかった! あとな、たっくさん美味ぇもん持って帰ってきたから、楽しみにしといてくれ」
メンメとイセポ、どっちがいぃ? どっちもオハウにすっと美味ぇぞ! ……確実に本州には存在しない言葉で話し始めた野宮に、最早どこから聞き返していいかわからない。ようやく会話で苦労することも減ってきたというのに、ひと月帰省したらすっかり地元の言葉に戻っている。
「へえ、野宮君は兄弟がいるんですか」
わからない言葉はとりあえず無視する潔さで、原島が話の続きを促した。
「がっぱいるぞ! 上はええと……すまン、わかンねぇ。下は……ひとつ下が三人、ふたつ下が七人、その下は……」
「ちょい待ち、何人家族なんや」
桝谷の当然とも思える突っ込みに、野宮はきょとんとした。
「部落の子はみぃんな兄弟だ! だはんで三十人ぐらいだな」
「あかん、俺もうついていけへん」
短い夏の間に積もり積もった話題は、まだまだ尽きそうにない。
「大体、悪いのはうちの学校や。向こうの中学もおおかた同じ教科書使うてるんやて。ほんで通達が向こうより一週間も遅いんじゃ、買えるわけがあらへん」
朝から歩き通し、しかも買った本が段々と増えていくものだから、じわじわと残暑が身体にこもってくる。遣り場のない小言や愚痴が増え、五人は次第にやる気をなくしていった。
「うちは遠方から上京してきた生徒が多いから、通達も夏季休暇終了間際にしているのでしょう」
それにしたってなあ! 大声を上げる元気のある桝谷は放っておくとして、本江には先程から少し気になっていることがあった。
「平野君、少し休むかい」
文句ひとつ言わずについて歩く平野の側にさりげなく寄ると、本江は小さく囁いた。
「大丈夫」
平野はひとつ頷いた。しかし暑さに体力をすり減らしたのか、その顔色はあまり良くなかった。
歩く速度が少しずつ遅くなっているのが気になっていた。おまけにこの暑さだというのに、彼は汗ひとつかいていないように見える。明らかに具合が悪そうということもなかったが、無理をして歩調を合わせているのは確かだろう。数日前、帰省先から戻って久々に顔を合わせたときに、以前より痩せたと思ったのも気のせいではなさそうだ。
「そろそろ休憩しませんか」
一番後ろを歩いていた原島がふいに声を上げる。
「なんや、ひ弱やなあ」
「ひ弱で結構。朝から歩き通しですよ」
こういうときに原島のそつのなさはありがたい。僕と平野のやりとりを見ていて言い出してくれたのだろう。
「僕も原島君の意見に賛成。どこか店に入ろう」
原島の気遣いに感謝しつつ、本江はせめてもと率先して店を探すことにした。
「こないな店、あったんやな」
席に落ち着くなり辺りをぐるりと見回した桝谷が興味深そうに呟くと、
「最近できたらしいです。値段の割に食事の質が良いと、評判も中々のようで。内装の雰囲気の良さから、女学生に人気だそうです」
普段街に出ない人間がそう都合よく店を見つけられるはずもなく、結局原島の案内を頼りにして、五人は目抜き通りからひとつ外れたところにある喫茶店に辿り着いた。
小ぢんまりとした店内には、テーブル席が二つとカウンター席が五つだけ。ぎゅうぎゅうに詰め込まず余裕をもった造りは、うっかり入り浸りたりたくなる居心地の良さを生み出していた。質の良い調度品や落ち着いた照明にもひとつひとつ選び抜かれた気配が漂っていて、なるほど原島の言う通り女学生が好みそうだ。
「原島クン、きみそないな情報はどこで仕入れてくるん?」
「友人から、ですかね」
原島は意味深に微笑む。彼の『友人関係』は依然として謎に満ちたままだ。
半分開けた上げ下げ窓からぬるい風が入ってきて、グラスの氷をからんと鳴らす。歩き通した汗を早く追いやりたくて手で扇ぐと、夏の間にすっかり小麦色になった己の腕が目に止まった。帰省中に家の畑を手伝ううちに焼けたのだ。
ふと隣を見る。しばらく見なかった友は相変わらず日に焼けることを知らない白い肌をしている。やがて向けられた視線に気がついて、平野は何も言わずそっと目を細めてみせた。強い日差しの下では青白く見えた頬に僅かながら血色が戻ったのを認めて、本江は少し安堵した。
「なあ、なんか音聞こえねぇか?」
野宮が身を乗り出すようにして、上げ下げ窓を目一杯開ける。
たしかに聞こえる。どこからかさざなみのように、賑やかな気配が風に乗って耳に届いた。人の声か音楽か、もしくはその両方か。風向きからして川の向こうから聞こえてきているようだった。なんだろう、と話しているうちに遠く空砲が聞こえて、催し物でもあるのだろうかと顔を見合わせた。
「おッ、今年も祭の時期がきたねェ。俺も早いとこ店閉めて美味いもん食いにいこうかね」
注文をとりにきた店員が、窓の外に目を向けるなり楽しげに呟く。
「祭?」
「毎年のことさ、金王の祭だよ。知らないのか。……あァ、あんたら師範の一年か。上京組だな」
これも何かの縁だ、教えてやろうじゃねェか。店員は水を置くなり勝手に話し出す。
「源平の頃より続く、ここらじゃ一番でっかい祭だ。金銀に塗りたてた山車がいくつも列をなして本殿を目指すんだ。参道にはぎっしり露店が並んで、夜が更けるまで一日中浮かれ騒いでる」
がたんとテーブルが揺れる。見れば野宮が腰を浮かせてうずうずと目を輝かせていた。
「おれ行きてぇ! 祭見てぇ!」
なあ、いぃだろ? 店に入ってまだ数分、飲み物すら注文していないことも忘れて野宮は叫ぶ。
「教科書仰山抱えたまんまか? 行くとしてもいっぺん帰って出直そうや」
折角の楽しいもんも楽しめへんやろ。珍しく真っ当な意見を出した桝谷だったが、
「何言ってンだよ! 帰ったら夕飯、すぐ点呼。どうやって抜け出すンだ? すぐ目と鼻の先ででっけえ祭やってるんだてに、後ろ向いて帰ぇるだて? 冗談だろ?」
ひとりでも行くと言い出しかねない剣幕で行こう行こうと繰り返す野宮に、完全に気圧されて黙り込んでしまった。
「なあ、こっからどう行きゃいぃンだ?」
「この店を出て真ッ直ぐ川の方へ向かって、最初に見える赤い橋を渡るんだ。そうしたらもう、いい匂いと人の流れでわかるだろうよ」
よし、早く行こ! 親切に教えてくれた店員に興奮気味に礼を言うと、野宮は勢いよく立ち上がった。
「待って、まだここ入ったばっかりじゃないか、」
慌てて引き止めるも、祭で頭がいっぱいな野宮にはもう届かない。店員も店員で、折角昼時に入った客が何も注文せず帰ろうとしているのを止めようともしない。
「なあ野宮君、聞いてくれ、」
「昼は露店で買えばいぃだろ! 何がいっかなぁ、おれ故郷以外の祭サ初めてだ」
「き……聞けったら」
もう必死だった。なんとかしてこの周りの見えていないお祭り男を止めなくてはならない。
「なあ瑞生、粉もんだったら何が好きだ?」
「粉もん? そやなあ、やっぱちょぼ焼きやな」
「ちょぼ焼き? 初めて聞いた、なンだそれ?」
何かが自分の中でぷつんと切れるのを感じた。堪忍袋の緒が切れたのか、暑さのせいで一瞬思考が眩んだのかは今となってはもうわからない。
「ち……ちょっこ待った! なんために店入ったかもう忘れたか? ちょっこは休憩させてくりや!」
本江は叫んだ。辺り構わず叫んでから、あ、と我に返った。
「本江君、今、なんて言いました?」
呆気にとられた様子で原島が尋ねる。
「あ……いや、かっとなったら、つい国の言葉が……」
盛り上がっていた野宮も桝谷も、冷水をぶっかけられたかのように目を丸くしていた。