三 七月二拾九日

蛍見ながら吸うた煙草を、俺は一生忘れへんのやろうな。


 入学して最初の夏が来た。
 夏季休暇に入ると、学内の生徒の数はぐっと減った。休暇を利用して故郷に帰ったのだ。試験に落第した学生の補講も数日前には終わり、寮に残ったのは帰省費すらも惜しい者、様々な理由で帰る家のない者――ここ以外に行き場のない者が大半を占めた。抱えた背景も生きづらさもそれぞれだろうが、そういう人間にはどこか似通ったところがあるようで、似た者同士ばかりが残された校内は妙に居心地が良かった。
 同室で残ったのは平野だけだった。彼は公費生、つまり奨学生で、休暇で帰った日数分の奨学金が減らされるときいて帰省をやめたという。そこまで困窮した暮らしを強いられているという印象は受けたこともなし、きっと金銭的な問題だけでない何かがあるのだろう。いくら同室の仲とはいえ、それ以上の追求はできなかった。したいとも思わなかった。
 二人きりになった部屋は随分と広く感じた。狭いハズレ角のくせに、こんなにがらんとしていただろうか。こんなに風の抜ける部屋だっただろうか。
 二人しかいないということもあり、自然と平野と行動することが増えた。なんとなく夕食を共に済ませ、なんとなく一緒に部屋に戻る。消灯点呼までの間、平野は大抵授業のノートをまとめているか、図書室で借りてきた本を読んでいる。今日もまたいつものように寝台に浅く腰掛け、左肩を壁に預けて、残暑の滲むぬるい風に横髪を揺らしながら頁を繰っている。
「いやァ、平野クンがおってくれてホンマに助かったで」
 みんな故郷が好きなんやねェ、ちゃっちゃと帰ってもうてなァ。俺は帰るよりここの生活のが好きや。ちらりと反応を窺いつつそんなことを言ってみると、平野は紙面から視線を上げぬまま、そうですね、と穏やかに答えた。
 桝谷は私費生だ。私費生で帰省しない者はほとんどいない。私費生で帰らないのは大抵、家との関係に難がある者ばかりだ。それを知ってか知らずか、平野は桝谷が残っている理由を追求しようとはしなかった。
「うちの人達、心配したりせえへんの」
 敢えて意地の悪い訊き方をした。怒らせたかったわけではない。品行方正が服を着て歩いているような平野の薄暗いところを、普段は見せない内側に潜ませた陰を、ふと暴いてみたくなったのだ。
 平野は本の頁から視線を上げた。濡羽色をした瞳が桝谷を射る。
「桝谷君のご家族も、きっと案じていると思いますよ」
「俺? うちは別に、そんなんないやろ」
 平野は人の悪意に敏感だ。言葉にほんの少しだけ垂らした苦味を、後ろ暗い感情をいとも容易く見抜く。そういうものに触れたとき、大抵の人は今あなたの心無い言葉で傷つきましたと言葉や、表情や態度で伝えようとするだろう。そうでなければこの先ずっと傷つけられるかもしれないからだ。
 しかし平野は違った。そこに悪意が滲むことには誰よりも敏感に気がつくくせに、傷ついたと伝えようとはしなかった。
「桝谷君が残っていてくれて、よかったです」
 ほら、まただ。平野は向けられた悪意を、毒と知りつつ飲み下してしまう。

「なんか、平野クンとこないな風に話すの初めてやなァ」
 同室の中では、平野は本江と特に気が合うようだった。俺はといえば野宮と気が合った。そんなわけでこうして二人きりになるまで、平野とは同室といえど特に深く語り合うようなことはなかった。
「なァ、平野クン。俺のこと、どないに思っとるん」
 平野は寝台の側の小卓に本を置くと、思案気に白い指を組んだ。
「傷つくことを、とても恐れている人」
 ぽつりと平野は言った。
「もっと話してみたいとずっと思っていたのだけれど、桝谷君の周りにはいつも誰かしらいるでしょう。だから上手く近寄れなくて」
 気を悪くさせたのなら、すみません。申し訳なさそうに平野は目を伏せた。
「俺な、話しかけやすいってよォ言われるんや。こないしたら話しかけやすいやろな、って考えてやっとるんやけどな。せやからこれ、演技なんや。平野クンは見抜いとったってことやね」
 騙されてすぐに打ち解けてくる人間を、どこかで軽く見ていた。誰も見抜いてくれないから、上手くやればやるほど虚しくなった。
「俺、帰りとうなくて残ったんや」
 誰にも言うつもりのなかった感情がふとこぼれた。
「うち冷え切っててなあ。俺な、母親の連れ子なんや。実の父親は覚えてへん。俺がちっちゃい頃に突然消えてしもたらしいわ。んで、母親は新しい旦那にぞっこん。ついでに旦那の子どもを溺愛。俺なァんにも楽しいことあらへんから、さっさと家出たろ思て、ほんでここ受験した」
 どこにでもあるような話だ。一度口に出してしまえば途端に軽く思えた。
「東京に憧れてでも、ましてや教師に憧れてでもあらへん。ただ息しとっても疎まれへんとこに行きたかっただけなんや。多分、ここやのうてもよかった」
 軽蔑してほしかった。その曇りのない綺麗な目で、口で、見損なったと吐き捨ててほしかった。
「ただ息をしていても疎まれないところ、か」
 平野は思いがけず寂しげな目をした。
「どれだけ薬を使っても快くならなくて、朝も夕も医者が往診にきて。布団から起き上がることさえできないままに日が暮れていくのを見ているとき、呼吸を続けるだけで人の手を煩わせる自分の存在が許せなくなる」
 こんなこと、誰にも言えませんけれど。平野は感情の薄い声で呟いた。濡羽色の瞳に荒んだ翳りが見えた。
「桝谷君は、ここでなら息ができますか」
「うん、まァ……家におったときよりは楽やな」
「ならば、桝谷君がここに来たことは間違いではなかったのだと、僕は思います」
 せっかくこうして出会えたのに、ここじゃなくてもよかったなんて、言わないで。哀を灯した瞳が儚く揺れる。
「平野クンは、ここでなら息苦しくならへんか」
 問えば、平野はくすりと笑った。僕のこれは居場所の問題ではないんですけれどね、と小さく呟いてから、
「この身体を許せるようにはなれなくても、存在は否定しない心の強さが欲しいです。……そんな未来のために、きっと今ここにいる」
 平野ならそうなれると思った。いつの日にかそんな彼ともう一度、心ゆくまで話してみたいと思った。
 まだ見ぬ未来が、少しだけ待ち遠しくなった。

「ああなんか、煙草欲しくなってきてしもたなァ……」
 気が塞いでいるときは口寂しくなるものだが、気が晴れたら晴れたで無性に吸いたくなったりもするのが、煙草の厄介なところだ。
「いいよ、行ってきて」
 平野は読みさしの本に手を伸ばした。気にしないで、と言いたいらしい。
「いや、やっぱええわ。平野クンとこうして話していたい気分やから後にする」
 ホンマは、ちょこっと吸いたいけどな。本音は隠して笑顔で答える。
「僕が出るなら、一緒に行く?」
 しかし平野はそれすら見透かしたように、予想外の言葉を返した。
「……本気か?」
 思わず呆けた声が出た。何言うてんねんあほちゃうか、などと余計なことまで口走らなかった自分を褒めたくなった。
「うん。行こうか」
 時折、平野は思いもよらず行動的だ。予想もしていなかった展開に鼓動が早るのを自覚しながら、桝谷はおずおずとついていった。
 寮を出ると、平野はそのまま建物の裏へと回った。そこは桝谷がよく隠れて一服しているところで、なんで知っとるんや、と思わず問いただしたくなった。どこまで目端が利くのか、末恐ろしいものがある。
 昼の暑さもすっかり遠のいて、涼しい風が襟元を撫でる。敷地のすぐ裏手に川があるので、風がよく抜けるのだ。
「あかん、ホンマに吸いたくなるやんけ……」
 平野の手前、ここまできても吸わないつもりだった。夜に、しかも夏季休暇中で人の少ない中で重い発作を起こしでもしたら、それこそ命に関わりかねない。
「風上にいれば、多分大丈夫」
 桝谷の心配をよそに、平野は綺麗に笑った。
 いやホンマにあほちゃうか。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、
「……無理言わせてへんか? ホンマに、ええんか?」
「うん。駄目だと思ったら、ちゃんと言うから」
 ついに桝谷は折れた。頼むから駄目やと思う前に言うてくれ、と言い捨てて、手早く燐寸マッチで火をつけた。
「美味しそうに吸うよね」
 物珍しげに紫煙を眺めながら平野が言う。距離が近いのがどうしても気になって、煙を纏う右手を彼から遠ざけた。
「きみはやめとき」
「わかってる。……僕さ、多分、桝谷君が煙草吸ってるところが見たかったんだと思う」
「あほちゃうか……」
 ああ、ついに言ってしまったじゃないか。衝撃やら驚愕やらが混ざり合って、せっかくの煙草の味もよくわからない。
「平野クン、きみ……なんちゅうか、ホンマに優等生なんやな」
「色々教えてよ」
「あかんて! これじゃ俺は優等生をたぶらかす不良やないか」
 思わず吠えると、平野はころころと笑った。どこからか漏れる部屋の灯りにほんのりと照らされた横顔は繊細で柔らかい。こいつ綺麗な顔してるな、と今更のように思った。
――ああ、これだから。俺みたいな単純な奴はうっかり絆されてしまいそうだ。
「平野クン、気ィつけえよ?」
「何がです?」
「心の綺麗さにつけ入ろうとする輩はごまんとおるから気ィつけなあかんよって話や」
 桝谷君が思っているほど綺麗な人間じゃないです。整った横顔に一瞬見えた哀は、深い水底に落ちた星のように揺らいで消えた。
「あ……蛍」
 ふいに平野が視線を泳がせる。
「どこや? 見えへんかった」
「今一瞬、目の前をすうっと」
 白い指が少し離れた草むらを差す。裏の川から飛んできたのかもしれない。
「見えへんかったわ……。なあ、煙草の火って、蛍に似てへん?」
 くるくると指を回してみせると、平野は楽しそうに笑った。
「言われてみれば、少しだけ」
 やっぱり、平野には煙草は似合わないなと思う。これは幸せを掴むのが下手くそな奴が手に取るものだ。
 結局、ほとんど吸わずに燃え尽きていくのを二人で見ていた。手の中の蛍はあかあかと命を燃やして、やがて夏の終わりの風に吹き消されていった。