二 五月拾八日 - 1/2

やりたいことが特にない人間のものの決め方。紹介、偶然、時に運命。何にせよ、初めての経験は刺激的だ。そこで新たな仲間に出会えれば、なおのこと。
ただし、ひどく疲れることもある。そういうときは、逃げるが勝ちだ。


一、学生は課外活動に励むべし。文武双方を鍛え健全な心身を育むべし。
 青南師範学校では、校則で課外活動への参加が定められている。教師たる者、学問のみならず心身を健やかに保ち、かつ学生のうちに人との交流や上下関係を知っておけということだ。全学生が文化系と体育系の課外部それぞれ一つずつに所属せよと決められていた。
 本江は陸上部に入った。ある日の放課後、廊下で突然上級生に声をかけられ高飛びの選手が足りないと勧誘され、何故自分が? と疑問を抱えたままに見学に行き、気がつけばその日のうちに名簿に名前を書いていた。特にこだわりもなくやりたいこともなく、所属を決める期限が迫っていたのでそのまま入ってしまったというわけだ。次の週には竹製の棒を担いで走り込みに参加していたのには我ながら驚いた。幸い陸上部は競技数が多く、所属人数も学内で一番であり、少数精鋭の厳しい部ではなかった。週に二日ほど練習があるくらいで、一部のやる気のある生徒以外は大会に熱意を燃やすわけでもない。正直あまり運動は得意ではないので、できれば体育系は楽がしたかった本江にこれは合っていた。
 文化系は雑誌部に入った。これも理由は単純で、野宮に誘われたからだ。作家を志す野宮は当然文章の書ける雑誌部に即決したが、誘われてなんとなく見学した本江も気がつけばここに決めてしまっていた。つまり、体育も文化もなんとなく、特に何がやりたいということもなく決めてしまったわけである。
 主体性に欠ける決め方をした本江とは対照的に、やりたいことを突き詰めた野宮は毎日実に楽しそうだった。体育系は漕艇部に入り、日々練習に会合にと忙しくしている。特に念願だった雑誌部には相当力を入れているようで、入部早々溜まり場に連日入り浸り、原稿用紙を次々埋め尽くし、目指すは早稲田文学! などと血気盛んに叫んでは上級生に睨まれている。楽しいのは何よりだが、ほどほどにしておけよと思う。くびり殺さんばかりの形相で二◯六號室に現れる上級生に、すみません野宮は今いないんです、とびくびく頭を下げる同輩の立場も考えてほしい。あと授業を碌に聞かずに構想を練ってばかりで僕のノートをあてにするのもよしてほしい。
 原島は図書部と庭球部に入ったと聞いた。理由は単純、『どちらも情報通の集う場所だから』だ。
 原島は要領良く生きる天才ではないかと思う。実際彼の信条はそこにあるようで、誰とも下手に波風立てず、のらりくらりと面倒事を躱して有利な立場にいくことを楽しんでいるようだった。同室の者にだけは言い残すようになったが、相変わらず時々門限を過ぎても帰ってこない。人脈を駆使して監視の目の緩い教師が宿直の日を知り尽くすようになり、見つかって罰を受けることはめっきり減った。やはり世渡り上手である。
 桝谷は弁論部と陸上部だ。弁論部はある日廊下でビラを渡されその場で話し込み、意気投合して決めたという。いかにも話好きの桝谷らしいことだった。弁論部らしく昨今の思想や学生運動について日々熱弁をふるっているのかと訊けば、正直そういったことはどうでもいいのだと返された。ただ単純に人と話がしたいだけだという。陸上部はどこか体育系にも入らなければならないから仕方なくといった感じで、ほとんど練習にも顔を出していない。選手がいてもいなくてもよさそうな長距離を選んだ、と言っていたが、さすがに適当がすぎるのではと不安になってくる。

 タン、と空気を揺らす微かな音が聞こえる。しばらく間が開いて、またひとつ。今度のは先程のものより小気味良い。頃合いかな、と本江は木陰から立ち上がった。
 平野を待っていた。陸上部の練習の帰り、たまたま道場から弓音が聞こえてきたので、そろそろ終わるかなと思いなんとはなしに待っていたのだ。
 平野は弓道部に入った。弓道にした、と聞いたときには正直驚いた。身体が強くない彼は、ほとんど活動しなくてもいいところを消去法的に選ぶとばかり思っていたからだ。しかし弓道はかなりまめに活動する部である。無理を重ねなければいいが、という不安も少々あった。
 道場から荷物を抱えた学生がちらほらと出てくるのを見て、本江は入り口まで行った。どうやら終わった者から順に退場しているらしい。外へ出るなりほっと一息、談笑を始める人の流れに逆らって、本江は初めて弓道場に足を踏み入れた。
 入り口をくぐると途端に静寂が場を支配する。外の話し声や木々のざわめきは変わらず耳に届きはするのだが、道場を包み込む静謐で張り詰めた気配が、音をどこか遠くへ追いやってしまったかのようだった。
 射場の一番奥、本江の入場したところから最も遠い場所に平野はいた。
 肩幅よりやや広く足を開いている。さらりと薄絹に触れるような滑らかさで視線が的を射る――力を込めて狙っているようには見えないが、視線と的の間に一本筋が通ったかのような、吸い込まれそうな力を感じた。柔らかに伏せがちな印象の瞳が、真っ直ぐに的の向こうを見据えている。凛として、まるで別人のように見えた。
 すっと前触れもなく両腕が上がる。腕を上げるというよりは、時が満ちて自然と持ち上げられたような、何か見えないものに肘を引き上げられたかのような音のない動きだった。そのまま胸を開いて弓を引分ける。左手、右手と順に動いて、矢と目線が一直線に重なる。そのまま目線の僅か下までいって、ぴたりと止まった。
 今この瞬間、彼の周りだけが世界の全てから切り離されている。一秒、二秒、数えるのも息詰まる静寂。気づけば本江の周りからも音が消えていた。
 袖口から覗く白い腕にぐっと筋が張る。瞬きも許さない静かな気迫に、見ているだけで呑まれそうだ。息をするのも苦しい緊張をその身の内側に包み込んで、彼は一分たりとも動かない。体温を感じさせない横顔は端正がすぎて恐ろしささえ感じる。
 ぱっと一瞬、右手が離れた。彼はまだ動かない。深い視線は的を射たまま還らない。普段柔らかな彼が内に秘める途方もない熱量を見せつけられたようで、その変貌ぶりに鳥肌が立った。自分の知らない、平野啓司という青年の見てはいけない何かをうっかり覗き見てしまったようで寒気がしたのだ。
 指先まで張り詰めた気迫が徐々に消えていき、やがて音が戻ってきた。ふと的を見る。矢は的の斜め右を掠めて鎮座していた。
 一礼して向き直った平野は、ようやく本江を視界に映してふわりと表情を溶かした。
 どちらが本当の顔なのか、本江にはわからない。きっとどちらも偽りのない彼そのものなのだろう。

「お疲れさま」
 荷物をまとめるのを待って、声をかける。
「待っていてくれたのですか」
「たまたま弓を引く音が聞こえたから、なんとなくね」
 遅くなってしまったからか、或いは本江を待たせていると思ったからか。平野は制服に着替えず着物姿のまま荷物を手早くまとめると、本江と並んで寮へと続く道を歩き始めた。
 白の上衣にぱりっとした袴姿は見ていて新鮮だ。詰襟姿よりも背筋が通って、少し背が高く見える。彼は洋装よりも着物が似合うなと、ふと思った。
「ずっと気になっていたんだけれど。……どうして弓道を選んだの?」
 思案気な瞳が宙を彷徨う。答えはあるけれど答え方に迷ったとき、平野はこういう目をする。また答えにくいことを訊いてしまったかな、と本江は少し反省した。
「道場の厳粛な気配が身に馴染んだから、でしょうか」
 初めて弓を持ったとき、どこか別の世界が見えたような気がしたんです。平野は穏やかに答える。あの空虚を孕んだ瞳の先には、こことは違うどこかが映っていたのか。ならば、恐ろしさを感じたのも当然かもしれない。
「そういう決め方、憧れるな。僕はなんとなく決めてしまったよ……やりたいことがあるって、羨ましい」
 そう言うと、平野は違うんです、と緩く首を振った。
「やりたいことがあるというよりは、何も知らないからとりあえず時間と体力の許す限り色々と試してみているというだけで……今でこそ多少の運動はできるようになりましたけど、幼い頃は外へ出歩くのさえ身体に障るからいけないと止められていましたから」
 さらりと伝えられた過去に驚く。夜半苦しげに咳き込んでいることはあれど、それが命に関わるほどのものであるとは思っていなかった。
「そんなに重い喘息だったのか。……知らなかった」
「高小に上がった頃から随分と落ち着いたので、今はそこまででもないです」
 あまり気にしないで、と平野はすまなそうに目を伏せた。軽いことのように彼は言うが、言葉通りの単純な問題ではないのだろう。天気の悪い日は一日苦しげにしているし、咳がひどくて眠れないでいるのを見るのも稀とは言い難い。今もまだ、命を脅かす発作に襲われる可能性はゼロではないのだ――そう思い知らされたようで自然と身が竦む。
「そうか。……あまり気負いすぎないで、楽しめるくらいにしなよ」
 思わず恐怖を抱いたことを、気取られやしなかっただろうか。
「ありがとう。そうするつもりです」
 弓を引くのは面白いです。射場に立った瞬間から、波が引くように周りの音が溶けていくのが心地良くて。平野の柔らかな目元に僅かに赤みがさしているのを見て、本江は何故か嬉しくなった。
 平野の隣は居心地が良かった。同室の仲間のことも少しずつわかってきて、良いところも困るところも合わせてかけがえのない同輩だと思い始めてきた夏の入り口。相変わらずぎこちなく手探りな会話を続ける日々ではあるが、平野といるのが一番落ち着く気がした。平野は基本的に誰の存在も拒まなかったから、当然といえばそれまでかもしれないが。

「体育は弓道、文化系は何に入ったの?」
 そう聞くや否や、平野は表情を曇らせた。
「入学時の総代を務めた者は、校友会に名を連ねるのが慣例なのだそうです」
 声に灯る光が弱い。乗り気ではないのだとわかった。
「光栄なことじゃないか。校友会だけは内部の推薦制で、誰でも入れてもらえるものではないと聞いているけれど」
 校友会は言うなれば学校全体のまとめ役、学校の顔とも言える存在だ。各学年の成績上位者を中心として、課外活動で優秀な成績を修めた者や武芸の段位取得者など、学校に認められた生徒だけが所属することができる。卒業後も同窓会を主催したり後輩の就職先を工面したりと、生涯にわたって学校の名を背負えるので、いつかは校友会入りをと熱望する者は多かった。
「なんと言えばいいのか……その、一風変わった雰囲気があるといいますか」
 平野は言い淀む。はっきりとものを言うことの多い彼にしては珍しい。
「つまり、苦手なわけだ?」
 せっかく言葉を濁したのに、という顔で平野は本江を見た。
「……正直に言うと、そうです」
 落ち着かないから嫌だなんて子どもみたいですね。そう言って苦笑う。
「一年は他に誰か入るの?」
「今のところは、僕ひとりだと聞いています」
 入学して数か月で校友会の推薦資格を得られるのは、恐らく総代入学くらいのものだろう。噂によれば寄付金の多い者も無条件で資格を得られるらしいが、生憎か本江はそういった事情に詳しくない。
「それは心細いな。……平野君さえよければだけど、一緒に見学に行ってもいいよ。僕は入れないだろうから見学止まりだけれど。ひとりよりは気が楽じゃないかな」
 平野を案じているのも本当だが、正直校友会の雰囲気を一度だけでもいいから覗いてみたいという好奇心の方が強かった。
「そんな、悪いです。本江君はもう雑誌部に決めたのでしょう?」
「あれは誘われてなんとなく決めただけだから、これといったこだわりはないんだ。校友会の方が興味あるな。今はまだ推薦資格はないけれど、いい成績修めて来年はぜひ所属したいです! なんて言えば、先輩方も悪い気はしないと思うんだけど」
 学校の誇りや名誉にはそこまで興味もないが、学校の名を背負う者として自信に満ち溢れた先輩達には心惹かれるものがあった。いつの日にかそんな中に所属できたなら、いつだってその場の雰囲気に流されて主体性のない自分を変えていけるかもしれない。
 一緒に行かせてくれないかな。なおも食い下がる本江に、平野は小さく息を吐いて、
「明日、集会があると誘われているんです」
 少しだけ、付き合ってもらえませんか。恐々と窺う声に、本江は大きく頷き返した。

 この校舎が迎賓館として使われていた頃は会議室だった部屋をそのまま譲り受けた校友会室は、学生が課外活動で自由に使える部屋としては一番大きなものだ。重厚な彫りの入った木の扉の左右には、歴代の卒業生が得た勲章やら賞状やら関連の新聞の切り抜きやらがガラス製のケースに所狭しと飾られている。いかにもな雰囲気に圧倒されて、二人は扉の前で思わず顔を見合わせた。
 入る契機を窺っていると、ちょうど中からひとりの上級生が出てきた。まるで二人が部屋に入るのを躊躇うだろうと想定していたかのような間合いだ。
 ひょろりと細長い体躯の、細い銀縁の眼鏡をかけた上級生には見覚えがあった。朝礼伝達や消灯前の点呼時に、あれこれと指示を飛ばす二年生の後ろで何をすることもなく腕組みをして見ているだけの人物。校友会の人間だったのかと今更に知った。
「おお、来ないかと思った」
 嘘だ、と思った。試されているような視線がどうにも落ち着かない。
「お招きありがとうございます。……こちらは見学の」
 うっかり明け透けな警戒心とともに対峙してしまった本江とは対照的に、平野は柔らかな態度を崩さない。昨日不安げに話していたのとは大違いだ。平野にそっと目配せされて、本江は気を取り直して一歩前に進み出た。
「はじめまして、一年の本江恭二といいます。早いうちに先輩方の活動を知っておきたくて来ました。今日はよろしくお願いします」
 用意していた言葉はなんとかつっかえずに言い切れた。しかし練習したのは挨拶までだ。ここからは何がどうなっても上手くやり抜かなければならない。
「今年の一年は熱心でよろしい」
 上級生は満足げに頷いた。初手の印象としては下手は打たなかったと見える。
 たった二、三歳しか違わないのに、どうして上級生というものは偉そうに振る舞うのだろうか。……いけない、また不信感を表に出してしまった。どうにも居心地の悪い場所らしい、というのを最初に聞かされたせいで、どうにも見るもの全てをいちいち疑ってしまってよくない。
 いつまでそうしている気だ、早く入りたまえ――顎でついてこいと示した上級生の後に続いて、二人は校友会室に足を踏み入れた。
 部屋は昼だというのに薄暗かった。分厚いカーテンを閉め切った上に、明かりをひとつきりしか点けていないからだ。頼りなげな電灯がひとつ、部屋の真ん中をゆらりと照らしている。その真下にはどこから調達してきたのか、貴族の別邸にでもありそうな豪奢なカウチと木彫りのローテーブルがどっしりと構えていた。さらにそこには所狭しと料理が並べられている。日々寮で出されるものと比べ物にならないほど豪華だった。聞けば、近くの店から仕出しを取っているらしい。
 テーブルには学生が全部で八人。全員どことなく纏う気配が似ていた。
「さて、話の続きといこうではないか――」
 眼鏡の上級生が唇の片方だけを吊り上げてうっすらと笑う。
 校友会の月例会、それはさながら貴族の晩餐会を模した弁論大会であった。
 曰く、昨今の新入生はぬるい、それを甘やかす教師もぬるい、校則が年々生ぬるくなる。誰よりも誇り高い教育者として日々思想論を戦わせるべきであり云々……とまあ、ここまではどこにでもある学生運動的な気質を持つ集団だなという印象だった。
 決定的な違和感。それは会を構成する学生があまりに没個性的である、ということだった。彼らは会長である眼鏡の上級生の発言には一切異を唱えない。異を唱えないどころか、彼の一字一句を褒め称え、賞賛し、大げさに同意までしてみせる。何を言ってもどう振舞っても、食事ひとつ口に運ぶ仕草さえ、まるで彼を信仰しているかのように崇めるのだ。
 彼らが求めるものは学制改革の栄誉でも、卒業後の名誉でもない。
 会長からの寵愛と親愛、それが全てだ。