逢うは永遠の始め - 1/3

 穏やかな夢を見ていた気がする。遠い昔を思い出すなんて歳でもないのに、過ぎた日々を懐かしむような、ふと戻りたいと感じるような、そんな夢を。
 冷たさに顔の先を撫でられて目が覚めた。ぼんやりと開いた目に朝の空気が触れている。まだまだ寒いが、ここ最近は頭の先まで布団に埋まりたくなるほどではなくなった。
 布団に潜ったまま部屋の様子をそっと見回してみる。早朝の薄青い光に照らされた部屋はしっとりと静かで、まだ誰も目を覚ましていないようだった。二年の間、結局最後まで自分が一番早起きだった。
 空中を泳ぐ細かな埃をそっと吹くと、ちりちりと揺らいで光る。騒がしい寮生活の中で一番静かな時間は? と訊かれたなら、こんな朝のひとときだと答えるだろう。自慢にもならないささやかなことだが、この景色をいつまでも忘れないでおきたいと思った。
 もう少しだけこうして微睡んでいようか、それとも窓を開けて清々しい空気を胸いっぱい吸い込んで、新しい一日を始めようか。幸福な悩みは春がきた証拠だった。
 春を意識する物事が日に日に増えていく。新しい季節はいつも、象徴的な出来事を数えることから始まる。昔の歌人が鶯の声を春の便りとして愛した気持ちがわかるようになってきた、なんて爺臭いだろうか。
 冷たく凍っていたあらゆるものが溶け出す季節。水も、風も、花も、そして人も。先はまだ見えずとも、ひとまずどこかへとひと続きになり始めた道はだいぶ霧が晴れてきて、僕達は別れの時を迎えようとしていた。
 卒業試験が全て終わったのが五日前だ。正式な卒業認定はまだだったが、皆無事に試験を通過したことはわかっていた。風の噂だが、卒業が危うい者は成績会議に喚ばれると聞いている。五日も経って音沙汰なしということはつまりそういうことなのだろう。
「このまま北に帰ったら、まァた冬に逆戻りだ……」
 百人が見たら百人ともが無理だと言うであろう、何をどう考えたって収まりきらなさそうな本の山をどうにか無理矢理にでも小さな鞄三つに詰め込もうとしている男がひとり。格闘一時間の果てにようやくその無謀さに気がついたと見えて、野宮はあてどもない遣る瀬なさをついに季節と自身の故郷にまでぶつけ始めた。来週には綺麗さっぱりここを引き払えるように片付けておけと寮監から厳命されているのだが、この調子ではとても終わりそうにない。
「あっちは春なんてまだまだ先の先。青函航路は出来たてだから立派なモンだけどさあ……渡った向こうは雪、雪、雪越えてまた雪。列車なんてその下に埋もれっぱなし」
 東京はいいよな、桜だって待ってればそのうち勝手に咲くもんな。何事も基本的に前向き、楽観的、悪く言えば向こう見ずな野宮がこうまで僻みっぽくなるのも、別れが近い寂しさのせいだ。そうわかっているから、誰もが何も言えないままだった。
 この時期に桜か、と考え込む。随分と春らしくなってはきたが、三月半ばではまだ東京の開花にも早い。明日には最初の一輪と出会えるかなと思いきや冬に逆戻りみたいな冷たい雨が降るのを繰り返し、今にもほころびそうな蕾はなかなかしぶといままでいる。
「開花だけなら卒業式の日にはなんとか間に合ってくれそうだけどね」
「その日の夕には列車乗るんだからそれじゃ遅いんだって! 今すぐにでも咲いてくれなきゃ、ロクに見ることなくおさらばだ」
 ああ、早くあったかくならないかなあ。毎日夏みたいにどかんと晴れてぐんぐん季節が進んでさ。野宮は恨めしそうに窓の向こうを見る。今日はまだ曇り空止まりだが、ここ最近の天気の癖を考えるに明日あたりはまた雨降りなのではないだろうか。
「別に、染井吉野に拘らなければいいだけでは?」
 そんなに見たいなら、今咲いているものを見に行けばいいだけだろう。湿っぽいのはいい加減うんざりだと言わんばかりに播本が口を開いた。
「どういうこと?」
「例えば枝垂れ桜なら少し開花が早い」
 素っ気ない物言いだが、播本がこうして人と自然に会話をするようになったのは大きな変化なのだった。野宮のしつこさ……もとい、誰でも友として受け入れる心の広さに根負けした形ではあったが、理由はどうあれそれで随分と関係性がよくなったのはたしかだ。
「枝垂れ桜か! どこにある?」
「そんなことまで知るか。そういう手もある、というだけの話だ」
 そこは知っててよ! と無茶を言う野宮を今度こそ綺麗さっぱり無視して、播本は机に広げた参考書の中へと戻ってしまった。片付け……というより一人だけさっさと進学先である高師の寄宿舎にほぼ全ての荷物を移動しただけの播本は、期日までに同輩の荷造りが終わらなかろうがそれで寮監にこってり絞られようがどうでもいいらしい。相手が野宮だからではなく、彼に人を手伝うなどという考えは端からない。

「妙な桜の噂なら聞いたことがありますけど」
 素気無く見捨てられた野宮を哀れんでか、ぽつりと思い出したように原島が口を開く。なんだ、みんな黙っていただけで実は興味津々なんじゃないか。
「妙な桜?」
「染井吉野でも枝垂れ桜でもないらしいのですが……とある神社の裏手に、一本だけ季節外れに咲いている桜があるとか」
 それも、この時期にもう見事な満開で。少し声を落として付け加えた原島の物言いに、どこか背中が冷える思いがした。
「……怖いのはやめない?」
「おや、本江君はそういうの苦手でしたっけ」
「本気で信じてはいないけど……原島君の冷静な語り口で言われるとその、うっかり本気にしそうになるというか」
 精一杯誤魔化しはしたが本当は苦手だ。とても苦手だ。野宮や桝谷が冗談めかして口にしても怖くはないだろうが、秘密をそっと打ち明けるように囁く原島の声音には妙なものが宿りそうな気がする。眼鏡の奥で仄笑うのもよしてほしい。真昼間から百物語でも始まりそうじゃないか、冗談じゃない。
「なにそれ、詳しく聞かせてくれよ!」
 よせばいいのに、怪談話と最も縁遠いであろう野宮が食いついた。彼方の住人でも等しく友達だと本気で言いだしそうな野宮に僕の気持ちなど一生わからないだろう。
「あくまで噂、ですけど……なんでも真っ赤な桜、らしいんです」
 夜半に提灯の灯を向けると……すっとひとつ息を吸い込んで、原島は言葉を止める。
「まるで人の生き血を吸ったように赤く、ぼんやりと不気味な光を返すとか」
 ほら見たことか。だからやめておこうといったのに。
「真っ赤? それホンマに桜か?」
 俄然興味をひかれたのか、桝谷までもが小説本から顔を上げて聞き返す。ニヤニヤと楽しげに、とことんまで野宮を怖がらせてやろうと思っているに違いない。すぐそばに僕という被害者がいることにも気づいてほしい、頼むから。
「見た人は桜だと、そう言ったそうですが……あくまで聞いた話、なんですよ。間近で見た人に確かめられればいいのですが……不可思議かな、この目で見たという人にはとんと出会えない」
 勿体ぶった言い方に、ようやく野宮もこれが本格派の怪談話だと気がついたらしい。ごく、とひとつ喉を鳴らして、原島の話に聞き入った。

「この時期なら梅か桃かもしれませんね」
 作業の手を止めた平野が顔を上げてぽつりと呟いた。播本と違って気遣い屋な彼は、野宮が散らかすだけ散らかして収拾をつけられなくなった荷造りを当たり前のように手伝ってやっていたのだが、黙々と手を動かすかたわらこの一連の話についてあれこれと考えていたらしい。
「ちょっとやめてよ、啓まで……っていや、なんかそれだと妙に現実的にならない?」
「? 桜に見紛う、この時期に盛りを迎える赤い花なら梅か桃かなと思っただけですが」
 僕としては非現実的な気配から脱出できるのはありがたい限りなのだが、恐らく平野はこれが怪談だと気がついていない。野宮でさえ気がつくのに、時々どうしてこうも鈍いのか。
「花の形はたしかに桜だったと、見た人は言ったそうですが……」
 率直すぎる平野に引きずられて、原島も思わず話の調子を崩した。
「神社だって言うたよな。具体的には場所はどこなん?」
「えっと……川向うに商店街があるでしょう。その先の小さな稲荷神社の裏手だとか」
 怪談には曖昧さとそこに伴う想像力が肝心だとよくわかる。こうなってしまえばもう怖くない。稲荷神社の裏手と言われただけで、もうそこに並び立つ小さな商店と冬のおでんの匂いまで思い浮かんでしまった。
「そンなら今からでも行けるな!」
 つい今しがたまで怪談話だったというのにそれはあんまりだ。
 というよりこの展開、既視感がある。先日も夜に抜け出したことが翌日あっさりバレて厳重注意を受けたばかりだ。今度は昼だから外出してもどうこう言われることはないが、卒業間近になって何を浮かれているんだと白い目を向けられるに違いない。何かと目立つ者揃いのこの二◯六號室だ、此の期に及んでさらに噂などされたくもない。円満に恙無く卒業したい。
「本当にあるかどうかも定かではないんですよ?」
 まさか実際に行くという話になるとは思ってもいなかったのだろう。原島はなけなしの抵抗を口にした。
「嘘でもまあ仕方ない、で済む距離だろ?」
 そういうことじゃない、と突っ込みたくなった。僕としては怪談の舞台になど行きたくはないのだが、話の腰を折られまくった原島が可哀想にもなってくる。
 行くよな、なあ当然行くよな。こんなきらきらした目を向けられて拒否できる人間がいるだろうか。
 僕は構いませんよ、と平野は頷いた。啓、悪気はないのはわかっているけど、こうなったのは半分君のせいだからな。
 しゃあない、行くかと桝谷も笑う。播本は案の定ため息をついた。彼のこれは今にはじまったことではないので無視だ。
「……せめて昼食を食べてからにしましょうか」
 諦めの滲む声で原島が呟いた。やった、とはしゃぐ野宮の歓声がそれをかき消していく。
 学生最後、という言葉ばかりが浮かぶ。人生最後じゃないのに、二度と会えなくなるわけでもないのに、どうしてこんなにしがみつきたくなるのだろうな、とも思う。
 終わりが迫っている、ただそれだけの理由で、こんなにも大切にしたいのだ。そう思える日々を過ごせたことを、生涯の宝にしたい。