終 薄暮教室 - 1/2

 桜色の風が吹き抜けて、山道を登ってきた汗を心地良く冷やしていく。耳を澄ますと電車が山間の鉄橋を遠く渡っていく音が聞こえる。ここからは見えないが、もう少し登った先の頂上からならばきっと海が望めるだろう。
春啓はるひろ。前にいた先生はね、春啓に贈り物をしてくれたんだ」
「おくりもの?」
「春啓の、啓の字だ。先生の名前から一文字もらっているんだよ」
 春啓は石碑の裏に再び回り込み、まだ教わっていない難しい漢字だらけの文字列を先程よりもずっと真剣な目をして追いかけ始めた。
「あった! あったよ、僕とおんなじ漢字!」
 ぱっと表情が輝く。得意満面で指差す春啓に、藤倉は大きく頷いてみせた。
「ああ。それが、先生の名前だよ」
 まだほんの三、四歳だったとはいえ、実の親に捨てられた悲しみは相当のものだったのだろう。いくら名を尋ねても幼い彼はただいやいやと首を振って泣くばかりで、ついぞ聞き出すことができなかった。
 新たな名前をつけたのは、彼を引き取った若い夫婦だった。長く子どもに恵まれなかった夫婦に引き合わせてくれた感謝と、先生のような優しく賢い人になってほしいという願いをこめて、夫婦は新しく家族になった子どもに啓の字を贈り、春啓はるひろと名づけた。
「ほら、見えるか? ちょうど町の真ん中、大きな屋根のある建物の周りの桜並木は見事なものだろう。それと向こうに見える山々の桜の淡い色と雪の白、真っ青に晴れ渡った春空の対比。美しい町だな」
 遠景を指差しながら藤倉は言う。春啓は興味津々といった風で聞いていた。
「僕、クマ先生のお話好き! おんなじだった景色がきらきら光って見えるようになるから」
「ありがとう。もしそうなら、それは啓司先生のおかげさ」
 満開の桜を見下ろして笑う。そこはまさしく、花の上だった。

 手紙の最後に自分の名をしたためて、凝り固まった背を伸ばした。名の上に併せて綴った日付に目がいき、ふ、と溜息とも吐息ともつかぬ思いが零れ落ちる。
 今日でちょうど一年が経つ。今年の桜は早咲きで(というよりは昨年が遅かったらしいのだが)、数日後には満開になりそうだった。晴天に恵まれれば良い花見日和になるだろう。
 書き終わった手紙を乾かしている間、書斎の中をぼんやり見て回る。物言わぬ言葉の気配を始終感じるここは、やはりあまり好きにはなれない。しかし一番先生の残香を感じるのもこの場所、彼のよく座っていた文机の前に立つときなのだった。静寂のなか卓上灯を灯すとき、ふと何か柔らかく懐かしい温度が頬を撫でるのを感じたのは一度や二度ではなかった。
 教室として使っていた部屋も先生の自室も片付けられ幾分かさっぱりとしたが、書斎だけはずっと時が止まったままだった。誰が言い出すでもなく、このままにしておこうということになった。先生の集めた本ばかりに埋め尽くされた書斎は主を失った日から彼と共に静かな眠りにつき、いつかまた誰かが訪れる日をじっと待っている。
 手紙は書き終わったのだが、封筒をちょうど切らしていた。もしかしたら先生の使っていたものが残ってはいないかと、机の抽斗ひきだしをなんの気なしに開けた。
 開けた瞬間、あっ、と思った。そこにはいつか見た原稿用紙が入っていた。あの頃いつだって見るのを憚られた、ふと遺書という言葉が浮かんでしまった、あの原稿。
 原稿はいくつかの束に分けられ、それぞれ端を紐でまとめられていた。一番上にあった原稿の一枚目には見慣れた彼の流麗な字で「蒼龍の湖」とだけ記されている。

――るところに、大きな池がありました。その池には一匹いっぴきの青いりゅうんでいると、人々は昔から信じていました。りゅうは月明かりのない夜に、わかむすめけてはおぼれたふりをして、助けようと近づいた村の者を食べてしまうのです。だれひとりとしてりゅう姿すがたを見た者はありません。それでも、みなりゅう大層たいそうおそれていました――

 書かれていたのは童話だった。子ども達が自分で読むことができるように簡単な言葉と漢字だけで書かれている。狭い原稿に詰め込むように読み仮名まで振られていた。
 ずっと、これを書いていたのか。遺書だと思った自分が恥ずかしかった。
「そんなに、思い詰めてはいなかったのかもしれないな」
 教室を閉めてからというもの、書斎に一人籠る時間が増えた先生にどう接すればいいのか悩んだ。ふと目を離した隙に自ら命を断ってしまうのではないかという思いがよぎったこともある。いつも一番悪いことばかりを考えては、口に、態度に出さずに忘れようと努める。そんな迷いを知ってか知らずか、先生は自身の不安や恐怖を藤倉に吐露することは決してなかった。
 子ども達に会えなくなっても、思うように体が動かなくなっても、心は常に教室にあった。彼はどこまでも先生であった。それが余計に彼を追い詰めていると思っていた。
 しかしそれは思い込みがすぎていたかもしれない。教室を閉めてからも、そこまで辛いことばかりではなかったのかもしれない。彼の笑顔の全てが虚勢であったわけではない。子ども達への想いに満ちたこの原稿が、それを教えてくれる。
 抽斗は原稿用紙でいっぱいだった。次の束もそのまた次も童話だった。藤倉はそれをひとつひとつ読んでいった。どれもこの辺りに伝わる神話や言い伝えを可愛らしく描いている。悲しい終わり方をする話はひとつも無かった。時折藤倉の語った伝承を元にした話もあって、少しこそばゆく思った。
「これで、最後か」
 一番下の束を原稿用紙で埋め尽くされた机に引っ張り出す。それは一際分厚かった。
 これまでとは違い、一枚目には何も記されていなかった。紙はところどころ擦り切れたり折れたりしていて、最も長い時間をかけて書かれたものだと直感する。
 鼓動が早る。緊張しつつ一枚目をめくった。
「これ、は」
 見た瞬間、言葉を失った。

藤倉さん
 ひとつだけ、ここに残しておこうと思います。言葉で伝えるには差し出がましい気がして、このような形をとりました。これは私が残すささやかな、未来へのひとつの道標です。とはいえあまり気負わずに、目印程度に思ってくださいね。
 数年後に、隣町の小学校が合併して大きくなります。臨時教員として私も声をかけていただいたのですが、もう教師として立つことはできないと断りました。
 代わりに、貴方のことを推薦しておきました。勝手に決めて申し訳ありません。もしかしたらこれを読むよりも先に、突然そういった話を聞かされて驚いているかもしれませんね。
 藤倉さん。教師になってください。子ども達を導き、愛すること、愛されることを教え、見守る存在になってください。私の代わりではなく、貴方の思う、こうあるべきと思う教師に。
 これは押し付けかもしれません。貴方を縛る鎖なのかもしれません。しかし私にはどうにもこれが正しいことのように思えてならないのです。貴方に教師になってほしいと伝えることができるのは、私だけなのではないかと思うのです。
 世界は広いのだと、子ども達に教えてあげてください。連れていってあげてください。自らの目で見ることが叶わないのならば、想像力で飛び立つ術を、手に届く距離に隠れている沢山の幸せの見つけ方を教えてあげてください。藤倉さんにならできます。なぜならばもう、私に教えてくれたのですから。
 貴方との日々で新しく知ったこと、思い出したこと、ずっと私の中にあったのだと気づかされたこと。できるだけ、ここに残していきます。私なりに形にしようと思います。
 直接言葉で伝えられたことも、改めて書いておきます。そう遠くない日に貴方が私の声を思い出せなくなっても、言葉だけは残るように。

 藤倉さんに出会えて、幸せでした。         平野啓司

 手紙の後に続く物語。それは藤倉のよく知る話だった。
 主人公の男は高校を卒業してすぐに家を飛び出し、気ままな旅に出た。西へ東へあてもなく、様々な場所で様々な人に会い、出会っては忘れ、また出会って、男は町から町へと渡り暮らした。
 そこに藤倉は生きていた。先生の筆で、先生を通して生きていた。悲しい物語はひとつも無かった。藤倉の道筋は先生の目を通して温かい光に照らされていた。
 藤倉は物語を夢中で読んだ。いつしかすっかり日が暮れて手元が見えなくなっても、卓上の弱い灯りひとつで読み続けた。
 物語の最後は唐突に訪れた。ある町に辿りつき、桜の咲く道を子どもを背負って下りてきて、小さな町を見渡して――そこで前触れもなく終わっていた。最後の方の文字は震えていた。後には空白の原稿用紙だけが延々と残されていた。
「これじゃあ、終われないな」
 藤倉はペンをとった。とってくれと言わんばかりに置かれたままの、先生の愛用していたガラスペンをインクに浸し、迷うことなく書き綴った。
『――とある片田舎の小さな町で旅人は一人の若い男に出会う』
 何も書かれていない一枚目に記す題名はもう決まっている。

 いつも西日の差しているそこは、薄暮教室と呼ばれていた。

(終)