十二 薄暮の部屋 - 1/2

 意識の表面を撫でる涼やかな鈴の音。少し間があって、またひとつ聞こえる。
 廊下を歩く間にもまたひとつ。音を音として認識する前に体のどこかで瞬間的に反応していて、一瞬の間の後に、これは鈴の音で自分を呼んでいるのだと思考が追いついてくる。遠慮がちな音は常から意識していないとうっかり聞き逃してしまいそうな儚い響きをしていたが、不思議といつだって真っ直ぐ耳に届いた。
 危急の訴えではないとわかっていた。息も継げぬような発作が起こったときは鈴の音などなくともひどい咳でそうと察せるので、ちりんちりんと可愛らしい小さな呼び声が聞こえてきたくらいで狼狽えることはない。
「すみません……力が抜けてしまって」
 声をかけるよりも先に気落ちした謝罪の言葉が降ってきた。半端に布団に身を起こしたまま離れたところの文机を引き寄せようとして失敗したらしい。机の上の湯呑みが倒れ、零れた水が着物の袖口と畳を濡らしていた。
「火傷してないか」
「ええ……もう随分と時間が経っていましたから」
 何か拭くものはありませんか、と言いつつ自ら後始末をしようと身じろいだ先生を布団に押し留める。それじゃあ呼ばれた意味がないだろうと嗜めてようやく、先生は肩の力を抜いて背凭れに体を沈めた。
 やはり体調はあまり良くないらしい。楽にした途端に噎せこむような湿った咳に襲われて、しばらくはゼぅゼぅとザラつく呼吸を宥めるように胸を押さえて目を閉じていた。白く筋張った手がふと作り物めいて見えて、こんなにも温度を感じさせない色をしていただろうかと思う。
「呼びつけてしまって、すみません」
「気にするな。どうせ暇してるんだ、なんてことはない」
 布団から起き上がれない時間の増える先生に、用のあるときは鈴を使って呼ぶようにした方がいいと提言したのは池沢だった。何かある度に大きな声で呼びかけるのはかえって咳き込むことに繋がるし、最悪また喀血しかねない。いかにも病人らしくて困ると曖昧な笑みを浮かべた先生の、笑みに隠した悲しみに触れて身を切られる思いでいたのは池沢も同じだろう。
 人の身体というものは、もう使わないと判断した機能を急速に退化させ排除するように作られているのだろうか。鈴を使うようにしてから先生の声は小さくなり、明朗さを失って常に霞の向こうから聞こえてくるかのようになった。生きるためにはそれで必要十分とばかりに彼の纏っていた様々が溶け落ちていき、自分がこれまで見ていた「彼らしさ」とは何だったのだろうと行き場のない思いを抱かせる。一回り小さくなったような先生を前にして、彼が今もなおこれまでと本質的に同じ存在であると言いきれる自信はなかった。ただ命を繋ぐことだけに集中するしかなかった体が仕方なく削ぎ落としていった数多の要素の中に、失ってはいけない人間らしさまでも含んでいたように思えた。
 十分に老いて身体の機能を失っていく過程においては、肉体と精神の純化していく速さにそう大きな隔たりはないのだろう。肉体が終わりに向かうに従って思考も緩やかに活動を鈍らせ、やがてはじまりへと還りつく。大抵は肉体の終わりよりも精神が鈍るのが少しだけ早く、永遠の眠りにつくことを明確に意識できないままにそのときを迎えるのは、肉体よりもずっと脆い精神を壊さぬためにあらかじめ備わった機能なのかもしれない。
 しかし先生はまだあまりに若かった。肉体が窶れていくのが早すぎた。精神だけが明晰なままに取り残されて、終わりゆく時間の流れを克明に刻み続けていた。
 自分が彼の立場であったならとうに狂っていただろう。先生が狂わないのは、狂えないでいるのは、彼が無意識のうちに自身にかけた暗示のせいなのだ。短い命、せめて終わりだけは己の望む形で幕引きをしてやろう、私にはそれができる強さがある――それだけを信じて、否、無理矢理にでも信じ続けられるように自らに暗示までかけて、ただ穏やかにそのときを待っているかのように取り繕う。並の人間にはとてもできないことだと、先生はきっと気がついていない。
「時間を持て余しているならと貸してくれた詩集があったろう。半ばまで読んだところなんだが、中々良いな。好みだ」
 草萠え出た野のほそ道に、おぼろなる月の光は照る――ちょうど鈴の音に腰を上げる前に目を落としていた一文を諳んじると、先生は柔らかく笑んだ。
戀人こひびとの涙せし後の瞳のやうに、寝れる若草の頬を冷たく接吻くちつけて――」
 さざめく笑い声はそのまま吐息のような咳に変わる。藤倉さんならきっと気に入ってくれると思っていました。強い風のひと吹きで、道行く喧騒ひとつで掻き消されてしまいそうな声がそれでも確かに耳に届く。
「また何か書いているのか」
 布団の側、半端に引き寄せられた机の上には、数枚の原稿用紙が幸いにも零した水の被害を受けずに置かれていた。数日前に見たときよりも量が増えていたので気になったが、きっちり裏向きにまとめられた様子にどうにも手を出すのが憚られた。
 見てもいいか、という意味を込めた視線を送っても、先生は穏やかに微笑むばかり。許されているのだろうとは思ったが、言外に牽制されているような気もして落ち着かず、結局今日も見ないことにした。
「あまり無理するなよ」
 夕刻にかけて熱が上がるようで、乱れた羽織を直してやりつつさりげなく触れた薄い肩は案の定少し熱い。わかっていますと先生は答えて、微熱を灯した指先でそっと羽織をかき寄せた。
「今日もまた、日が暮れていく」
 夕暮れの景色に誘われたかのように視線が伸び、先生はぽつりと呟いた。
 ガラス戸の歪んだ屈折はよく見知ったはずの景色を奇妙に遠ざける。戸を開ければ隣家の夕食支度の音も水温む春めいた匂いもすぐ近くまで漂ってくるのに、薄いガラス一枚が外界と病床を分断していた。季節も人の温もりからも遠ざけられた部屋で、先生は日々純化されていくようだった。
 呼吸が落ち着いてきたのか、先生はゆっくりと身を起こすと机の上の原稿用紙に手を伸ばした。白さの目立つ指先が紙を捲る音に、ふと秋めいた匂いが目裏に広がった。
 藤倉がすぐそばで見ていることを先生が気にする様子はない。しかしどうにも気まずかった。空になった湯呑みと濡れた手巾を手に藤倉が立ち上がったときにはもう、先生は居住まいを正してすッと集中の海へ、一枚向こう側の世界へと意識を向かわせていた。つい今しがたまでぐったりと凭れていたとは思えない、すんなりと伸びた背筋に、どこか自分の介在し得ないところからの力を感じるような気がした。

 湯呑みを片付けて自室に戻った。机の上には借りた詩集が開いたままに置かれている。
戀人こひびとの涙せし後の瞳のやうに、寝れる若草の頬を冷たく接吻くちつけて」
 先生の声をなぞるように、一節を口に出してみる。
 囁くような掠れ声、零れ落ちた優しくも儚い笑み、紡がれる言葉達。愛おしいものはみな淡雪のごとく消えていく。いつまでも鮮明なままに残しておくことはできない。
「……あれは、遺書、なのか」
 鼻の奥に枯れたにおいを感じる。もうすぐ春だというのにひどく寒い。
 季節に見合わぬ怖気の正体は、終わりの気配だった。