その晩はずっと先生の側にいた。池沢が無事に戻り、薬を追加してからしばらくの間はぐったりと深く眠っていたが、やがて胸苦しいのか何度も身をよじり、弱い咳を零すようになった。布団を掛け直してやると僅かに目を上げる。尋ねてもいないのに大丈夫、だいじょうぶと繰り返し呟いていた。
先生はいつも自分より少しだけ深いところまで世界を見ている、と思う。限りなく薄い紗が幾重にもなっている世界で、先生にはその一枚一枚が透明に見えていてどこまでも見通すことができる、そういう深さだ。
普段は近くに焦点を合わせているが、時折遥か遠くに視線を投げてしまう。その頻度が上がるにつれ、彼の身体もまた紗の向こうへ行ってしまいそうになるのだ。
「きかせて、ください……貴方の、話を」
一晩中、先生は夢と現実を行ったりきたりしていた。ほとんど声にならない声はか細い吐息となり、言葉の間には絶えずガラスを擦り合せたような呼吸音が聞こえていた。薄く開かれた目は夜明けの気配に白む障子の向こうを捉えたまま、それでも声は藤倉の方を向いていた。
「今は体を休めることが先決だ。そんなものはいつでも話してやるから」
布団を掛け直そうと身を乗り出すと、あてもなく遠くを彷徨っていた視線がすうとこちらに戻ってきて交わった。表面ではなく内側に入り込んだすぐのところを見られているような、そんな錯覚を覚える。
「今、ききたいんです……いま、じゃない、と、」
呼吸の擦れ合う音がひどくなって噎せ込んだ。それでもつっかえつっかえ話そうとするものだから、わかった、話してやるからもう喋るなと言うしかなかった。
「どんな話をご所望かな」
「貴方が、今まで見てきた中で……ッけほ、こほ……一番、美しかったものの話を、聞きたいです」
一番美しかったもの。そう言う先生はどこか楽しげではあったが、哀しんでいるようにも見えた。
「一番美しかったもの……そうだな、数年前の秋頃に北方の山間地帯にしばらく滞在していたんだが、そこで見た花畑が美しかったのはよく覚えているよ。松虫草という小さな淡い紫色の花でね……通り雨が上がって、細やかな水の気配に四方満たされる中、雨の匂いと花の仄かな甘い香りがいつまでも漂っていて……雫の重さに少ししなだれた花弁がやけに神秘的に見えた」
藤倉の答えに、先生は少し驚いた顔をした。意外だったかいと訊くと、くすりと笑って小さく頷いた。
「数々の秘境を巡ってきた貴方なら、そのうちのひとつを挙げるとばかり、思っていました」
「たしかに今まで沢山のものを見てきたが、実は何気ない景色が一番心に訴えかけてくるものでね。きっと、偶然の中に美は潜んでいるものなんだろう」
「わかる気が、します……例えるならばそう、たまたま見上げた夜空に、流れ星が見えたときの気持ち、でしょう……?」
先生は微笑んで、やがて疲れたのかそっと目を閉じた。
「いつか、子ども達にも、話してやってください……さぞかし、喜ぶことでしょう」
「残念だが、俺はそういうのは苦手でね。お前が見てきて話せばいい、いくらでも連れていってやるさ」
返事はなかった。ただ、震える瞼からひとつふたつ、透明な涙が流れて頬を伝い髪の間に消えていった。それが先生の答えなのだとわかった。
「私には……」
弱い咳を零し続ける細い喉が嗚咽を漏らすことはなかった。ぐっと飲み込んで押し殺し、しかし隠した痛みで震えていた。
「私の役目は、もう……いいえ、本当はもっとずっと前に、終わっていた……。だからこれは、わたしの、我が、儘……」
ゼぅゼぅと咳き込みながら先生は乾いた笑い声をあげた。余計に咳が出ようが御構いなしに、さざめくような笑いに溺れていた。誰の前でも見せたことのない、窶れきった、何もかもを諦めた色をしていた。
藤倉は痩せた背をきつく抱きしめた。どうしてそんな行動に出たのか自分でもわからなかった。筋の浮いたうなじの病んだにおいに、胸が引き絞られるように痛んだ。
腕の中で先生は身を固くしていた。抱きしめられることに、手放しの愛情を向けられることに慣れていない固さだった。
「藤倉さん。私が死んだら、どうか……どうか、私のことは、忘れてください」
喘鳴混じりの吐息が囁いた。切実で儚く、孤独な嘘が耳朶に触れた。
「言うな。それだけは聞き入れられない」
「私は、貴方に何もできない……っ、ゼぅッ……誰にも何も、遺せない」
「構わない。何もいらない。ただ、ここに居てくれればいい」
誰かの役に立ちたい、自らの存在の理由を残したいと生きてきた先生に、ただそこに居てくれさえすればいいと願うのは残酷だろうか。それ以外には何もできないのだと言われているようで、その度に人知れず傷つけられてきたのだろうか。
「貴方の慕った教師は、もうどこにも、いないんですよ」
「俺が大切に思うのは、平野啓司という一人の人間そのものだ。教師だから、子ども達に慕われているからじゃない。弱いところを見せられないのも、愛されることに慣れていない不器用さも、全て――全て大切なんだ」
言葉は残酷だ。願いも思いも苦しみも、実際に感じている重みの半分も持たないままに勝手に零れ落ちたり、ひとつ間違えただけで致命傷になり得るほどに深く突き刺さったりする。
それでも言葉の向こうにある本当に手を伸ばしたくて、殻を溶かすときが来ると信じて拙い言葉を紡ぐ。言葉だけじゃない、手も足も感情も音も何もかも、使えるもの全てを使って手を伸ばす。虚しく空を切るばかりの指先にいつか灯る熱を信じている。
「まだ……生きていたい。生きたい」
「ああ」
「いつか、遠い世界の景色を見たい。海を越えて、遥かな水平線の先を知りたい」
「そのときは、俺も一緒だ」
「直次が、子ども達が大人になった姿を、見たい」
先生の手が背に回されることはついぞなかった。誰かの心に、希望に手を伸ばすだけの力を、先生はもう残してはいなかった。
「貴方と共に、未来が見たかった」
翌日、雪風に濡れた戸口に一枚の紙が貼り出された。
小さな町の片隅の、陽だまりのような教室がひっそりと終わりを告げた。昨夜の雪が嘘のように晴れ渡った、銀色の朝のことだった。
