八 緋寒桜 - 1/2

 町が近づくにつれ、街道の雪は踏み固められて歩きやすくなる。このあたりは冷え込みはそこまで厳しくならないが、積雪だけはとにかく多い地域で、先月の初雪を皮切りにしんしんと降り積もるとあっという間に根雪になった。
 防寒と日除けのために頭から顔まですっぽりと覆っていた頭巾を脱ぎ去って、藤倉はようやく一息ついた。爽やかな冷たい風が、歩き通して汗ばんだ肌に当たって気持ちが良い。吐き出した息は白く、木々の先からきらきらと舞い飛ぶ雪の欠片と混ざり合ってなんとも冬らしかった。
 長らく各地を放浪していたとはいえ、元々都会で育った人間にとって雪深い街道を往復するのは案外骨が折れる仕事だ。最初のうちは前を行く仲間達の背を追うだけで疲れ果てていたが、次第に要領を掴んで道中の景色を楽しめるまでになった。寒々しく枯れた草木の合間を吹き抜けていく冷気にふと顔を上げてみれば、雪を纏い脈々と尾根を広げた山が遠く見渡せる。どこまでも突き抜ける青い空の下胸いっぱいに冷えた空気を吸い込んで、また次の一歩を踏み出す。
 藤倉にとってこの町はもう、偶然訪れた数多の土地のうちのひとつではなくなっていた。朝目覚めて一番に、窓の外で朝日に照らされてつやつやと光る瓦屋根を見たとき。数日前に蕾をつけた軒下の小さな植物が段々と膨らみ、ついに花開いたのを見たとき。かざぐるまを持った子どもにすれ違いざまに「クマ先生!」と呼びかけられたとき――幼い頃、家の近所を兄弟と一緒に来る日も来る日も走り回って遊んだ思い出がふと蘇るような、不思議な郷愁を覚えることがある。
 次の季節もそのまた次の季節もこの町で迎えて、気がついたら何十年も経って――それも悪くない、と今は思える。日々を重ねていくことを恐れる必要はないのだと思えるようになったのはきっと、この町での出会いがあったからだ。
 明後日で年内の仕事も終わりだ、最終日には盛大に飲み明かそう――そう仲間達と約束をして、藤倉は西日の眩しい街道をひとり大通りへ向けて下っていった。きし、きしと小気味良い音をたてて歩きながら、帰りがけ医院の前を通るついでに先生の薬を貰っていこうと考える。
 雪道の先に、目印のような橙色のガス灯がひとつ。池沢医院は通りで一番早く明かりを灯すから、遠くから見てもすぐそれとわかる。
 暖かに照らされた医院の前には人影があった。見知った背格好におや、と思う。

「おおい、先生」
 深藍の袷羽織の上から褪せた色の襟巻きをふわりとまとい、歯の高い雪下駄を履いた先生は扉の前で佇んだまま、どこへ向かうでもなくぼんやりと空を見上げていた。
「あ、藤倉さん……おかえりなさい」
 襟巻きの先が風にそよぎ、西日の色を吸い込んだ繊細な黒髪が揺れる。振り向いた先生は眩しそうに目を細め、儚く笑んだ。
――ふと、その微笑みに漠然とした違和感を覚えた。嫌な予感というほどのことではない、言葉にするほどのことでもないのかもしれない。しかし見過ごしてはいけない大切なものの前を素通りしたような、ちりりとした不安感が一瞬胸をよぎった。
「……何かあったか?」
 見たところ体調が悪そうな様子はない。それでも何かが普段の彼と決定的に違うような気がする。笑い方も声も何ひとつ変わらない、しかし彼の見た目だけを精巧に写しとった人形を前にしているような、妙な怖気を孕んだ違和感――
「? いいえ、何も」
 先生の目がすい、と細くなる。詮索はここまでだ。疑えば疑うほど、先生はさらりと何でもないといった風を装って余計に無理を重ねるか、無駄に気を張るようになるだけだ。違和感の正体に気づけない以上、これ以上突き詰めることはできない。
 襟巻きの先がふわふわと揺れる背中に問いかけたかった。しかし言葉は出てこない。あと一歩彼の内面に踏み込む言葉を、藤倉はいつも飲み込んでしまうのだった。
 先生は何も言わない。藤倉にだけ言わないのではなく、誰にも、大切なことは何ひとつ言おうとはしない。誰にでも優しく笑いかける彼は、その実誰のことも本心から信用してはいないのだ。藤倉にはそう思えて仕方がなかった。
 何もかも曝け出してほしいというわけではない。ただ、全てを一人で抱えて生きていく必要はないのだということを、彼が周囲の人間に救われて生きていると感じるのと同じように、彼のおかげで前を向けたと感じている人間がいることをどうしたら伝えられるだろうか。
「薬ならもう頂きました。冷え込む前に帰りましょうか」
「ああ。この天気だ、今夜はきっとかなり冷える」
 然程早い速度でもなかったが、歩き始めてすぐに先生はけほけほと弱く咳き込みだした。俯きがちに、襟巻きに口元を埋めるように咳き込む先生は思案気な目をして、ここではないどこか遠くを見ていた。
 先生の見つめる先に藤倉も目を向けてみた。店じまいの作業に忙しそうな商店、角のところで世間話をする女達、日陰のまだ綺麗な雪を集めて遊んでいる子ども――藤倉の目に映るのはいつもと変わらない町の景色だった。藤倉には先生の見ている世界は見えないのだった。
「ほら、あそこ。一番星だ」
「あ、本当……なんだか、日増しにきらきらと透き通っていくように見えませんか? 今日のような見事な夕焼けの中で見上げると、特に」
 同じものを見て、同じ感情を抱くことだけが心の繋がりではないことはわかっている。それでも、先生がその目に何を映し何を感じているのかわからないのは怖かった。遠くを見ているより、こうして星を見上げて笑っている方がずっといいと思った。

 年の瀬なせいか、そこかしこにどことなく急いた気配が漂っている。
「クマせんせ、机持ち上げてくださーい」
「先生ー、障子戸が外れちゃった!」
「あのう、書斎のお掃除はしますか?」
 あっちからもこっちからも、ひっきりなしに藤倉を呼ぶ声がする。子ども達は廊下の雑巾がけで忙しなくいったりきたり、窓枠の埃をはたいたりと楽しげだ。
「机はそのままでいい。障子戸もそのまま……ってああ、もう遅いか……。書斎も触らない方がいいだろう」
 今年もいよいよ残すところあと僅かとなった。この時期の恒例行事らしい教室の煤払いは、今年も冬晴れに恵まれて事前の取決め通り昼過ぎから始められた。
「クマせんせ、お隣の家の人が畳干し手伝ってくれるって!」
「先生! 足りない箒、家からとってきます」
 あっちから呼ばれ、こっちを手伝い、ふと気がつくと子どもの数が減ったり増えたり……もうわからん、どうにでもなれと藤倉はひとりごちた。どかりと腰を下ろした縁側はさっきから何度拭いても、子ども達が汚れた裸足でぱたぱたと行き交うせいでちっとも掃除になりやしない。
 もしも指揮をとるのが先生だったならば、子ども達は先生の身体を気遣ってもう少し静かに掃除を進めただろう。……少なくとも、家中を駆け回ってあわよくば普段は入り込めない書斎や先生の自室に忍び込もうだなんてことにはならなかったはずだ。
 やはり自分はこのようなことにはとことん向いていないらしい。先生が今この場にいなくて本当によかった、こんな埃まみれの空間に長居させようものならあっという間に咳が止まらなくなっていたに違いない――深くため息をついて、藤倉はつかの間の休息を終わりにした。

 先生は今教室にいない。なぜなら、子ども達から「おやつ当番」を言いつかったからだ。
――今年からは掃除は僕達がやりますから、先生はおやつを用意していてくださいね!
 掃除道具片手に教室を訪れた子ども達は、そう言うが早いかどやどやと上がり込んでわいわいと楽しげに掃除の役割分担をし始めた。突然おやつ当番を言い渡された先生は玄関で驚いた顔をしたまま、呆気にとられてそれを見ていた。
 じゃん、けん、ぽん! 負けた子は渋々といった風で雑巾を絞りに手洗い場へと駆けていく。それぞれが持ってきた掃除道具を年長の数人が一度全て集めて、役割の決まった順にてきぱきと配っていく。
「これはこれは……頼もしいですね」
 ぱたぱたと廊下を走り回る子ども達を見て先生は幸せそうに微笑んだ。おやつは何がいいですか、と先生が尋ねると、子ども達はきらきらした目をしてめいめいに声をあげる。お饅頭! 落花糖! おやき! アイスクリーム! 卵糖カステラ! ……挙げ始めたらきりがない。
「こら、どさくさに紛れて高級菓子を強請るんじゃあない」
 東京の百貨店でしか買えないようなもんがこんな田舎町にあるわけないだろう。思わず口を出した藤倉に、先生はおや、お詳しいんですねと笑う。
「藤倉さんは何をご所望ですか? なんて。皆さん、沢山買ってきますからお掃除頑張ってくださいね。藤倉さんの言うことをよく聞くんですよ」
 夕方には戻りますと言い、先生は出かけていった。そうして間もなく、あの大わらわの掃除が始まったのだった。

 あんなに高かった太陽も気がつけば随分と傾いていた。ぴかぴかになった縁側には洗って干された雑巾が並び、教室では疲れ果てた小さい子らが真新しい藺草の香りに包まれて幸せそうに眠っている。眠気を誘う夕暮れの気配の中、藤倉は書斎から適当に引っ張り出してきた本を暇つぶしに読んでいた。
 玄関の戸ががたん、と鳴る。先生が帰ってきたかと思い顔を出すと、立っていたのは直次だった。ちょうど良い時分に来てくれたと子ども達を任せ、藤倉は先生を迎えに出た。
 西日がちょうど町を染めあげる時間だった。通りは眩しく照らされ、足跡のついていない端の方の雪はまっさらなままに光を受けて鮮やかな橙色から深い紫まで美しく色を変えている。うっすらと青く変わり始めた山際に、気の早い一番星が今日も光り始めていた。雪化粧した大通りの先に、よく目立つ赤い野点傘が見える。傘に隠れた二人分の人影が遠目に揺れて、やはりここにいたかと思った。
 茶屋の縁台に浅く腰掛ける、すっと伸びた背筋の男性の影と、すぐそばに立つ背の低い女性の影。先生と、茶屋の看板娘の仁美さんだ。二人は何やら楽しげに話しているようだった。傘の向こうで穏やかな笑い声が聞こえて、邪魔をしては悪いかと藤倉は足を止めた。
 先生はちょうど帰ろうとしていたところだったらしい。ではまた、と会釈し立ち上がった先生に、仁美さんは傍に置いてあった風呂敷包みを手渡した。はにかんだ笑みを浮かべて顔の横で小さく手を振り、店の中に戻ろうとして……ふと、その足がぱたりと止まる。
 先生! 振り返りざまに呼びかける声が通りに響く。何かを決心したかのような強い足取りで戻ってきた仁美さんは、大通りの真ん中で足を止めた先生の袖をくい、と引いた。
 長い影が通りに伸びて、黄昏時の静寂が二人を包む。偶然か天の計らいか、夕を告げる鳥の声さえも途切れた一瞬は、まるで物語の一場面のようだ。
 逆光に沈んだ二人の表情はわからない。仁美さんは先生の袖に手を掛けたまま恥じらうように俯いた。結い上げて顕になった項に夕日が落ちて、しとやかに艶めいて見えた。
「先生……平野先生。貴方のことを、ずっとお慕い申し上げておりました」
 目の眩むような橙色の世界にぽつりと落とされた声は砂糖菓子のように脆かった。少し加減を間違えたら呆気なく手の中で崩れてしまいそうな儚さを、彼女は持ち前の芯の強さでなんとか保っているようだった。
「どうか、私をお側に置いてください」
 袖を握った指先は耐えきれず小さく震えていた。痛いほどの沈黙が二人の間を流れていく。もう限界だと、引っ込められようとした指を先生は慈しむように両手でそっと包み込んだ。弾かれたように仁美さんは顔を上げた。
「ありがとう、ございます……けれど、それはできません。申し訳ありません」
 先生の声は柔らかく聞こえた。しかし同時にずきりと胸を抉る冷たさも孕んでいた。あの日、医院の前に佇んでいた先生に声をかけたときと同じ、どこか無機質な余所余所しさがあった。
「……どうして」
 それは恐らく仁美さんにも伝わっただろう。彼女は呆然と、今しがた耳にした言葉を信じたくないという顔で呟いた。
「貴女はまだお若い。私と一緒になるべきではありません」
 自分が断られたかのように痛々しい顔をするか、相手の気まずさを慮って静かに目を伏せるか――先生ならそんな反応をすると思っていた。なるべく傷つけないように、これ以上悲しませないようにと痛いほどの優しさと慈しみをこめて――しかし先生は淡々としていた。気まずさも、もしかしたら相手への思いやりもないのではと錯覚させるほど、残酷なまでに淡々としすぎていた。
「平野さんは、私がお嫌いですか。……他に好いたお人がいるのですか」
 彼女は気丈だった。それでもぽろりぽろりと止めどない涙が頬を濡らしていく。
 強い言葉と視線に、先生の瞳が初めて揺らいだ。虚をつかれて口をつぐみ、後悔ともとれるような迷いが浮かんだ。
「仁美さん、私は、」
「……ごめんなさい。私、貴方を困らせたいわけでは、なかった。こんな、嫌われるようなこと言おうとしたんじゃ、なかったのに」
 仁美さんは頰を流れる涙を拭おうともせず真っ直ぐに先生を見つめていた。先生は何も言わず、目を逸らすことなくそれを受け止めた。
「平野先生。貴方が、好きです……好きでした」
 泣き腫らした目に理解と諦めが宿る。彼女はぱっと踵を返すと、足を止めることはなく店の奥に姿を消した。
 夜告げ鳥の声がする。立ち尽くした先生の背を照らす眩い西日の最後の一辺が消えていく。山の端に残った光は段々と欠けて、最後には線香花火の散り際のように一瞬じわりと震えて溶けた。
 もう、見ていられなかった。先生が自分に気づく前にと、藤倉は静かに元来た道を引き返した。