七 冬蝶の夢 - 1/2

 灰色の空から、ふわりはらりと羽毛のような雪が舞い落ちてくる。初冬の到来を告げるそれはまだ水分を多く含み重たげで、コートの裾や袖に纏わりついてはあっという間に染み込んでいった。道行く人々もどこか楽しげに空を見上げては今年初の雪を手のひらに受けてみたり、肩に乗ったひとひらを払い合ったりして笑っている。
 濡れたコートをはたきながら、もうじき姿を見せるだろう子ども達のために今日も少し隙間を開けられたままの玄関の引き戸を開ける。只今帰った、と声をかけつつふと足元を見ると、見慣れた先生の草履の横にもうひとつ、少しくたびれた黒の革靴が並んでいた。
「おや、お帰りなさい。お邪魔させてもらっていますよ」
 居間では池沢がまるで自分の家であるかのようにのんびりとくつろいでいた。この間先生にと自ら持ってきた菓子を先生よりも早いペースでつまんでいる。この味はこっちと違いますね、これは多分黒砂糖を使っているんでしょうね……きっと先生にもっと食べてもらおうとまずは自分から手を伸ばしたのだろうが、すっかり目的を忘れてひとり楽しんでしまっているのは甘味好きの池沢らしい。
「藤倉さん、お帰りなさい。とうとう初雪ですね」
 隣でお茶のお代わりをつぐ先生もいつも通りの様子だ――普段はきっちりとしている正座を今日は緩く崩しているのと、その原因になっていると思われる右の足首に巻かれた真っ白い包帯を除いては。
「それ、どうしたんだ」
「ふらついて倒れた拍子に軽く足を挫いてね、それで先程ここまで送ってきたところなんですよ」
 先生が答えるより先に池沢が、特になんてことはないといった風に答える。すみません、お手数をおかけしました、と先生が軽く頭を下げると、池沢は笑って彼の肩をひとつ叩いた。
「さて、そろそろお暇するとしようか。……ああ、見送りはいりません」
 見送りに立とうとした先生を制すると、池沢はよっこらせと立ち上がる。白衣の上から年代物のインバネスを羽織り、重そうな往診鞄片手に玄関へ向かうその背中を、藤倉は追いかけた。
「足の怪我は大したことはないよ。軽く捻っただけだから、数日もすればほとんど痛みもなくなるだろう」
 靴を履きつつ、池沢は何気なく言う。藤倉が先程胸の内に飲み込んだ言葉を、心配を見透かしたようであった。
「それよりも、貧血を起こして倒れるほど咳き込んだことの方がね……最近あまり良くないようだ」
 池沢は思案げに呟く。怪我の原因はそれか、と藤倉はようやく合点がいった。
 最近の先生は前にも増して危なっかしいところがあった。咳き込んだあとふらふらとしゃがみこんだのを慌てて支えたのも一度や二度ではない。彼は倒れるまで無理を重ねるほど闇雲な行動は取らないが、ふとした瞬間発作的に襲いくる体調不良にはなす術もないといった風であった。
「最近冷えるからか? 俺にできることはないか」
「季節のせいもあるにはあるだろうが……」池沢は言葉を濁す。先生の不調は今に始まったことではないし、生まれつき呼吸器の弱い彼が何を原因に体調を崩すのか、長年彼を診てきた池沢でも明確に判断のつかないことは多いのだろう。
「それにしても少し気になる。何か変わったことがあればすぐに教えてください」
 先生は素直に具合が悪いとあまり口に出さないから、傍で見ていて小さなことにも気がついてくれる藤倉さんの存在は私にとっても彼自身にとっても大変ありがたいのです、と池沢は言った。

「ここは、こうです。……もう少し筆を立てて、そう、ゆっくり」
 あちらこちらに墨の飛んだ書き方手本を睨むように見ながら一心に筆を動かす少年。その正面に座った先生は、少年の集中力が切れそうになる度に短い言葉で指導していた。
「先生、これでいい?」
「よくできました。片付けが終わったら、手を洗って少し待っていてくださいね」
 得意満面で書きあがった紙を見せた少年は、ありがとうございました、と大きな声で言うが早いか、自分の道具をまとめると次に順番を待っていた隣の少女と席を交代した。
 普段ならば先生が子ども達の机を回って指導しているのだが、今日は若干足を引きずっているのに気がついたのだろう、誰が言い出すでもなく自然と先生の机に子ども達が集まるようになっていた。まだ年端もいかない子ども達だが、意外ときちんとものを見ているのだなと感心する。
 次に先生の前に座った少女は思ったように書けないのか、時折手を止めては考え込んでいた。先生はそんな少女の小さな手を覆うように、上から自分の手を重ねる。
「うわ、先生の手ぇ冷たいね」
「文子さんの手は温かいですね。手が温かい人は心も温かいと言われるんですよ」
 自身の手が墨で汚れるのも構わず、少女の奔放な筆先を軽く導くように先生は手を動かす。感触を忘れないうちにと真似をして同じ文字を重ねて書く少女を横目に、先生僕にもそれやって! と羨ましがった他の子ども達が続々と集まってきていた。
「順番に、今日は一回ずつですよ」
 子ども達はめいめいに自分の書き方手本を手に机を囲んで、順番が来ると先生に手を添えてもらい、書きあがった文字を見てはしゃいで笑う。始めは手本の通りの文字を書いていたのだが、誰かが自分の名前を書きたいと言い出した後からは皆それに倣って名前を書くようになり、最終的には全員分が揃った。
 文子、正雄、一郎、千代子、一彦、加代……十二人の名前の紙が机に並べられて、少し開けた窓からの風にそよいでいる。手洗い場の方からは子ども達の楽しげな笑い声が響いてきていた。
 机の端には何も書かれていない余り紙が数枚置かれたままになっていた。それを見て、藤倉はふと思いついた。
「これでよし、と」
 子ども達の名前の横に先生の名を記した紙が並んだ。ささやかな悪戯に、藤倉は思わず笑みを浮かべた。