六 繊手に初紅葉 - 1/2

 薄雲越しの光が部屋に差し込んできている。建て付けの悪い窓をガタンと押し開けると、冷ややかで澄んだ朝の空気が頰を撫でた。
 窓の向こう、今ではすっかり見慣れた景色の遠い山々では気の早い木々がちらほらと色を変え始めていて、あと数週間で山全体が秋色に染まるだろう。紅葉が町まで広がる頃には山の頂上は白い冠を被るようになり、そうして山里の長い冬が始まる。
 ぐっと下がった気温のせいか、今朝は珍しく寝坊した。居間では直次が朝食を半ば食べ終えている。雪が降り始める前に済ませなければならない仕事が山積みらしく、ここ最近直次は毎日忙しそうだ。
「兄さん、昼頃に消防組の信さんが顔を出すそうですよ」
 新聞の一面に目を通しつつ、直次は言う。
「毎年のあれですか。今年は少し早いですね?」
 朝食を急ぎかき込む直次は、藤倉が起きてきたことに気がつくと、おはようございます、と椀を持ったまま軽く頭を下げた。
「今年は雪が早そうだから、準備も前倒しにすると」
「信さんもお忙しいことで……消防組の皆様が町を走り回っているのを見ると、冬が近いんだなと感じます」
 御馳走様、夜は遅くなるから待っていなくていい。直次はてきぱきと自分の皿を片付けて玄関へ向かう。行ってらっしゃい、気をつけて、と見送った先生だったが、ふと何かを思い出したのか、あ、と小さく声を上げると、直次を追って玄関へ向かった。
「直次、時間があったらでいいんですが、書簡紙を買ってきてはいただけませんか。通りの金物屋さんの向かいの、」
「知ってる、いつも使っているやつでしょう。そこならついでに池沢先生のところも寄っていきます」
 あまり感情を表に出さない直次だが、共に暮らすうちに見慣れてきたのか、最近は随分とその機微を読み取れるようになってきたように思う。先生の頼みにお安い御用、と片手を上げた直次の横顔はたしかに少し嬉しそうだった。

 夏の一件後、先生が今の状態まで回復するのには随分な時間を要した。池沢の的確な治療のおかげで肺炎は重症化せずに済んだものの、元々体力の少ない身が半月以上もほとんど寝たきりになったのだ。口には出さなかったが藤倉は内心、先生はこのまま陽の当たる小さな部屋で緩やかに弱りゆくまま、二度と元には戻らないのではないかと思っていた。このご時世、たった一度の怪我や病気で死にゆく人は少なくない。
 ようやく家に戻る許可が下りても、しばらくは布団から起き上がれない生活が続いた。元から白い肌は月の光のように透き通り、三日に一度は熱が上がってひどい喘息発作を起こした。
 ひと月ほど経つ頃には、先生を案じる子ども達がちらほらと垣根の向こうに集まるようになった。昼間に熱が上がらなくなってようやく、直次は部屋には決して入らないこと、入っていいのは縁側までで、会話だけにすることを子ども達に固く約束させ面会を許したのだが、先生の「こっちにいらっしゃい」の一言で、約束は敢え無く崩れさった。
 先生は布団に身を起こし、子ども達に読んでとせがまれるままに本を読み聞かせていた。一番年長の少年が、先生の身体に障らないよう一日一冊だけと決めたらしい。子ども達は日替わりで読んでもらいたい本を差し出しては、皆で縁側に座って先生の落ち着いた声音に耳を傾けていた。
 やはり彼は子ども達の先生でいることが一番の幸せであり、生きがいなのだろう。子ども達に会えるようになってから、彼は目に見えて回復していった。往診に来る池沢が何度も無理はしていませんか、嘘はおっしゃらないでくださいねと問いただすほどに、その回復は奇跡的だったのだ。
 そうして雪の降り出す少し前、作物の収穫も終わり紅葉が日に日に目に鮮やかなる頃に、先生は教室を再開した。

 先生が以前より確実に弱っていることに、藤倉は気づいていた。
 先生は人を頼るようになった。ようやっと身体に見合った生活をするようになったと言う人もいたが、きっとそうではない。先生は今までもずっとそうしてきたのだ。儘ならない身体と折り合いをつけるために、常人には易々とできることに陰で人一倍努力をしなんとか足並みを合わせ、それでもできないことは潔く人に頼る――諦めは胸の奥に押し隠して。弱い身体に生まれたことを呪いつつも、なんとかその身体で生きていこうとしているのだ。
 先生は人に頼ることを心苦しく思っている――これまでも、これからも。その気質だけは変えようがない。そうでしか生きられない人なのだ。
「藤倉さんも、そろそろ行くんでしょう」
 藤倉は今日から数日間、歩荷の仕事の手伝いで家を空ける。冬の間もこの町に残ると伝えたら、歩荷の棟梁は大層喜んでいた。
「ああ。今回のは雪が降る前の体慣らしだそうで、大した荷物もないから予定より早く帰れるかもしれない」
 先生は朝食の終わった机で新聞を読んでいる。彼の読んでいる面のちょうど裏には一面記事が――『世界的感冒 至ル所ニ罹病者溢レ蔓延際限ナシ』――このあたりはいまだ被害は少ないとはいえ、いつまでも楽観視してもいられないだろう。
 新聞を読みながら、先生は軽く咳き込んでいる。このくらいはいつものことだなと思う。思ってからふと、それがわかるようになっている自分に気がつく。
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい、どうぞお気をつけて」
 先生はぱたんと新聞を折りたたむと小さく手を振りかけ――思わず小さな子どもにするようにしてしまったことに気がついて、気恥ずかしげに手を降ろした。
「すみません、つい」
「いや、いいさ。行ってくる」
 後ろ手にヒラヒラと手を振り返してみて、なるほどこれは少し気恥ずかしいなと思った。

 結局、帰ったのは三日後の夕方だった。二日目の宿で盛大な宴が催され(棟梁の話ではこれが恒例らしいが)、三日目の朝に誰ひとり起きてこないのには驚いた。本格的に雪が降り始めればお祭り騒ぎの暇もなくなると聞いたので、晩秋のこれは歩荷達のささやかなお楽しみなのだろう。
 三日ぶりの玄関の戸を開けると、そこはしんと静まりかえっていた。子ども達はもうみんな帰ったらしい。
 先生は西日のほとんど沈みきった薄暗い教室で一人、書き物をしていた。窓際のお決まりの机で姿勢良く、さり、さり、と微かな紙とペンの音がする。インクを継ぎ足そうと傾けたガラスペンの先に琥珀色の西日が写り込んで、先生の手元に小さな光を落とす。
――く、けほっ…せほ、こほ………
 軽く咳き込んでペンを持つ手が止まり、空いた手で緩く胸元を擦るのが見えた。
「ただいま」
 先生はさっと顔を上げた。
「おかえりなさい」
 お疲れでしょう、今お茶を――立ち上がりかけた先生を藤倉はそっと制した。
「いや、いい。……なんというか、そのまま見ていたい気分でな」
「私を? 見ていても何の面白みもありませんよ」
「面白いというか……よくわからないが、そのままにしておきたい、と思ったんだ」
 私は別に構いませんよ。先生は可笑しそうに笑うと、再びペンを走らせた。少し甲高く冷たい筆記音。しかし先生の淀みないそれはどこか温かく、心地良いように思う。藤倉は先生の邪魔にならぬよう、少し離れたところにどかりと腰を下ろした。
 先生の耳にかけた髪がはらりと解けて、端整な横顔にかかる。繊細そうな毛先が西日に透けている。筆記の速度を変えぬまま、無意識のような何気なさで落ちた横髪を耳にかける――美しい眺めだと藤倉は思った。