四 空蝉・水中花 - 1/3

「兄さん、そろそろ、」
 控えめに開けられた障子の向こうから顔だけ覗かせた直次が、夕飯の支度ができたと呼びかけていた。
「もうそんな時間ですか。片付けたら向かうから、少しだけ待っていてください」
 筆を持ったまま振り返り答えると、直次はひとつ頷いて障子を閉めた。書き終わった手紙の墨を乾かそうと、文机の前のガラス窓を細く開ける。思いのほか強く吹き込んできた風にふわりと浮いた紙の端を咄嗟にぱしりと手のひらでおさえると、今度は肩の羽織がずりおちかけ、もう片方の手でかき寄せた。ふと見ると、机の端に置いたはずの筆は風で落ちて畳に少しの墨汚れを作っていた。
 読み返すのは夕飯の後にしようと、手紙が飛ばないように字引を文鎮代わりに置いて部屋を出る。西日の余韻を僅かに残す廊下に一歩足を踏み出すと、すぐそこまでいい匂いが漂ってきていた。今日は魚が安く買えたと直次が嬉しそうにしていたなと思い出す。

 居間に入ると、湯気の立った夕飯が整えられていた。直次は藤倉を呼びにいったのか姿が見えない。
 しばらく待っていると、二人が縁側から居間に入ってきた。藤倉は外で何か作業をしていたのか、青鈍の着物を東からげにした出で立ちで、その様になった姿にほう、と思わず感嘆のため息をついてしまう。自分がそんな恰好をしようものなら、直次か池沢先生がすぐさますっ飛んでくるだろう。掃除の最中に少し咳をしただけで慌てて交代しようとする彼等が黙っているはずがない。
「日暮れまでに終わらせるつもりだったんだが、思ったより時間がかかったな……」
 ぶつぶつと呟きながら居間に入ってきた藤倉は、食卓を見るなりおお美味そうだ、と笑顔を見せた。

「……なるほど。まだお若い夫婦なんですか」
 先生と藤倉は朝と昼も共に食べることが多いが、直次は日中忙しく働いているため、一日のうちで三人揃って話ができるのは大抵夕飯時になった。他愛もない話もしたが、最近はやはり子どもの引き取り手についてのことがよく話題に上った。
 今日もまた直次と藤倉は話し合いをしている。隣で交わされる話を聞きつつも、先生は次第に目の前の焼き魚の小骨を取ることの方に集中力を傾けていった。
「来週には一度会いにいく算段だが、どうする」
「……兄さん」
「……え? ああすみません、こっちに気を取られていて聞いていませんでした」
 怪訝そうに呼びかけられて我に返り、気恥ずかしさに頰を染めた先生を見て、直次はくすりと笑う。綺麗に取られた魚の骨を見て、相変わらず几帳面なこったと藤倉は感心して言った。
「お前さんも一緒に引き取り手の顔を見にいくか」
「ええ、私で力になれるのならば喜んで」
 え、と直次は慌てて、
「兄さんはいいから。藤倉さん、僕が行きます」
「直次、気遣いは有難いですけれど、それくらいのことなら大丈夫です」
「隣町まで山間の街道を歩いて一時間半はかかる。この暑い中途中で倒れられでもしたら困るから」
 この間よりまた少し痩せたの誤魔化せてるつもり、と直次はじろりと睨む。気まずくなった先生は魚をぱくりと一口つまんだ。
「わかった、隣町までは俺と直次で行こう。実際に子どもを引き渡すのは涼しくなってきた頃になるはずだから、そのときにはお前さんも一緒に行けばいい」
 まったく、本当に兄想いの良い弟だこと。揶揄からかうように口にした藤倉に、直次は何食わぬ顔をしながら机の下で強かな蹴りを食らわせた。

 ところでちょっと聞いたんだが……ああ、やっぱりそういうことか。それで、結局のところは?
 藤倉と直次の話は他愛もない方へと転がっていく。二人の楽しげな様子に、先生は時折相槌を挟みながらただ黙って聞いている。
 直次と先生がよく会話を交わすようになったのは、先生が教師の職を辞めこの町に戻ってきてからのことだった。生来虚弱な身ゆえに幼い頃から家の中で静かに本を読むばかりだった兄と、家の仕事に興味を示し外で両親の手伝いばかりしていた弟。仲が悪いということはなかったが格別良いということもなく、先生が師範学校に入り家を出てからはほとんどやりとりもせず、兄弟はそれぞれ違う道を歩んでいくものだと思っていた。――先生が度重なる激務に体調を崩し、失意に暮れて帰郷するまでは。
 帰郷した先生はまるで魂を抜かれた人形のようであった。誰と会話をすることもなく笑顔もなく、部屋でずっと臥せっていた。体調の良いときにはふらりと自室を抜け出して縁側からぼんやりと庭の椿を眺めていたり、寒々しい勝手口の戸に凭れていつまでも外の喧騒を傍耳に聞いていたりした。絶望したと見える彼は、はっとするような危うい美しさを憂う横顔に漂わせていた。生きた温もりを欠いた彼にかける言葉を見つけられる者などいなかった。それは血を分けた弟の直次も同じことであった。
 腫れ物に触るような日々が一年ほど続いた。ある日、直次は茶屋の店先に腰掛ける兄の姿を見かけて足を止めた。最近は随分と顔色も良くなり、時折外出するようになっていた兄は、いつものようにぼんやりと通りを行き交う人々を眺めていた。
 よく見ると店先にはもう一人いた。椅子を机代わりにして本を広げた子どもが、鉛筆を指先でくるくるともて遊びながら難しい顔をしている。子どもはうんうんと唸りながら本に向かって何か書き付けていたが、やがて癇癪を起こしたようにぐしゃぐしゃと乱暴に消しゴムをかけて書いた文字を消していった。
 それまで何事にも関心を向けていないように見えた兄がつい、と子どもの方を見た。しばらく眺めていたかと思うと、不意に音もなく立ち上がり、子どもの横にふわりとしゃがみこむ。突然傍にきて何事か話しかけた兄に、子どもは驚いて顔を上げた。
 兄は細い指先で本を指し示し、子どもはしばらく真剣な眼差しで兄の話を聞いていた。やがて子どもは笑顔で本を抱え立ち上がると、兄にぺこりとお辞儀をして言った。
「兄ちゃん先生、ありがとう」
 兄の背中が大げさなくらいに震えるのを直次は見ていた。ふらふらと立ち上がった兄は直次に気がつくと、泣き出しそうにくしゃりと儚く笑った。もう先生じゃないのに呼ばれるなんて、可笑しいですね。そう呟いた横顔には、いまだ兄の心の内に燻る悔しさや悲しみが滲み出ているかのようだった。
 その日から兄はよく外出するようになった。行くのは決まって例の茶屋で、出かけてからしばらくして様子を見にいくといつも二、三人の子どもを相手に店先で勉強を教えていた。噂を聞きつけてか次第に集まる子どもが増え、兄は家で勉強を教えるようになった。しばらくすると家も手狭になり、直次は仕事の倉庫兼従業員の寝泊まり用として使っていた古家を解放し、兄の自宅兼教室にしてはどうかと提案した。そうして四年前に開かれた小さな名もなき教室は、いつしか薄暮教室と呼ばれ親しまれるまでになったのだ。
 兄の冷たい憂いの眼差しは子どもを見守る温かな教師の眼差しへと変わり、直次ともよく話すようになった。兄弟の間にあった不可視の距離はいつの間にか溶け去っていた。
 数十年分のわだかまりを数年前に解消したばかりの兄弟と、僅か半年前にこの町に流れ着いた藤倉。しかし三人で囲む食卓にはそんな気配は微塵もなく、まるでずっと昔からこんな風に過ごしてきたかのような気心の知れた温もりがあった。

「大丈夫か? あまり食が進まないようだが」
 二人の話を黙って聞いているだけの先生に、藤倉が気遣わしげに声をかける。
「いえ、ついつい話を聞くのにに夢中になってしまっただけです」
「普段からあまり食べないせいで余計に食べられなくなるって、池沢先生も言ってたじゃないか……無理はしなくていいけど、なるべく食べるようにはしないと。これでも食べやすい味付けにしたつもりだから」
 兄さんが帰ってきてから料理だけは上達した自信があるんだ、と直次は言った。ありがとう、でも心配しすぎです、と笑った先生に、直次はすかさず笑い事じゃないと真面目に返す。真剣すぎるその様子に、藤倉は思わずぷっと吹き出した。
「何がおかしいんですか」
 じとりと睨んだ直次を見て、藤倉はますます声をあげて笑った。
「いやあ、直次は本当に先生を大切に想っているんだなあと」
「自分のことは棚に上げて……藤倉さんだって人のこと言えないでしょう。知ってますよ、この間も池沢先生のところで、」
 食ってかかった直次が言いかけた言葉を藤倉は慌てて制止する。
「ああそれは駄目だ! それ以上は言ってくれるな頼むから!」
「何の話なんです? 気になります」
 純粋な疑問を浮かべる先生に、直次はにやりと笑った。
「兄さん、最近藤倉さんが池沢先生のところにやたら足繁く通うのは、兄さんの薬を貰うためだけじゃないんですよ――」
「笑ってすまなかった! だからやめてくれ、それだけは勘弁してくれ!」
 懇願する藤倉に、直次は意地の悪い顔を向ける。
「藤倉さんがそこまで言うなんて、余計に気になりますね」
 どうしても教えてくれないんですか? なおも小首を傾げて尋ねる先生のあまりの純粋さに、藤倉はがっくりと項垂れた。
「ああ、直次に見られたのは一生の不覚だったな……」
 温かな笑いに満ちた空間。こんな日々がこれからもずっと続きますように。
 楽しげな二人と一緒に笑いながら、先生はそっと心に願った。