二 風薫る - 1/2

 先生の元に居候するようになって、早ひと月が経とうとしている。
 藤倉は先生に紹介されたいくつかの仕事で稼ぎつつ、子どもの引き取り手を探し回る日々を送っていた。
「ここの住人はみな親戚のように親密に繋がっている反面、他所よそから来た人に対しては親切とは言い難いでしょうに、貴方は随分すんなりと溶け込んだようで……きっと長く旅をするうちに自然と身につけられた気質なのでしょうね」
 本来ならば私が探すべきところを本当にすみません、と先生は目を伏せた。
 引き取り手を探し始めてすぐに、彼は無理が祟ってひどい貧血を起こし倒れたのだ。いつものことだと言うので顔色の悪さは気にしないようにしていたのだが、ふと足下をふらつかせた次の瞬間には真っ青な顔で崩れ落ちた彼を目の当たりにして初めて、藤倉は本当に虚弱な人間の危うさというものを知った。出会った日に池沢が言っていたことが、僅か一週間で本当になるなんて誰が考えただろう。
「人の懐に入り込む術は旅するうちに自然と身につけたものなんだろうが、あまりいいものじゃない……所詮は処世術さ。今回だって先生の紹介する人物だからというだけで、別に俺が信用されているわけじゃない」
 初めのうちは若い彼を先生と呼ぶのも不思議な心地がしたものだが、町の人が皆揃って彼を先生、先生と呼ぶのですっかり慣れてしまって、今ではもう違和感は感じなくなっていた。
 彼は私塾の教師をしている。尋常小学校に通う年齢の子ども達が、学校がひけてから家に帰るまでの短い間に先生の自宅兼教室を訪れて宿題をしたり本を読んだり、勉強に飽きてチャンバラごっこを始めたりする。
 私塾と言っても裕福な家の子どもが上級学校に進学するために通うものとは違い、生活が苦しく働き詰めの両親にあまり面倒を見てもらえない子どもや、様々な理由で学業する余裕もないままに小学校に通う適齢期を過ぎてしまった子どもを受け入れるための教室だ。それゆえ先生に教師としての実入りはほとんどなく、生活を成り立たせているのは町の人々の好意と、先生の弟の献身的な援助だった。身体は弱いが賢く人当たりの良い先生を慕う人々のおかげで、質素ながらも寝食に困ることはない生活をなんとか送っているのだった。

 今日も教室には十人ほどの子ども達が集まっている。彼等が危険なことをしていないかそれとなく気を配りながら、先生は座椅子で本を読んでいた。
 誰かが悪戯に開けてしまったらしい障子の穴からちょうど夕空の茜色が差し込んで、先生の手元を優しく照らしている。あっちへぱたぱた、こっちへぱたぱたと子ども達が走り回る足音に、本の頁を捲るかさかさとした音が混ざり合う。何をするでもなくぼんやりとそれを眺めていた藤倉は心地良い眠気に誘われていた。
「先生、これ読んでもいい?」
 ふたつの短いお下げ髪を肩の上で跳ねさせた少女が駆けてくる。差し出された本を見て、先生は困ったように笑った。
「さてはまた勝手に書斎に入りましたね? この間みたいにすずりをひっくり返したりしていないといいのですけれど」
「先生のお部屋、入っちゃだめだった?」
「だめではありませんよ。ただ、高いところに本を置いていますから、無理に取ると落として怪我をしかねません。次からは声をかけてくださいね」
 幼い子どもが相手であっても、先生は等しく敬語で話す。理由を訊けば、姿が小さく言葉が拙いだけで、彼等は大人よりも余程よくものを見ているのですよ、と教えてくれた。
「これは千代さんが一人で読むにはまだ難しいかもしれませんね。代わりにこの本に出てくる昔話を教えてあげましょう」
 先生がお話ししてくれるって! 千代の声を聞きつけて、それまでめいめいに遊んでいた子ども達が一斉に集まってきた。
 先生は子ども達を動かすのが上手い。あれをしましょう、これをしましょうと忙しく言い出すことなく、さり気なく子ども達の興味を引きつける術に長けている。人数も多く慌ただしい昼間の学校ではなく、のんびりとした夕暮れの教室だからこそできることなのかもしれないが。
「この本は、遥か昔から色々なところで起きてきた不思議な出来事を、後の時代に伝えていくために書かれたものです。例えば……かつてこの辺りには大きな池があって、そこには一匹の竜が住んでいたと言われています。若い娘に化けては溺れたふりをして、助けようと近づいた人間を食べてしまう悪い竜だったので、人々は大層恐れていたといいます――」
 先生の、少し低めの語り口には話し慣れた人のもつ心地の良い落ち着きがあって、どんな悪戯っ子も神妙な顔で聞き入ってしまう力があった。夕刻の朱に染まる部屋で穏やかに語る教師と一心に聞き入る生徒、というのは実に絵になる光景で、その中心で楽しげに話をしている先生はまさにこのために生まれてきたような人物なのだろうなと思う。
「――そして、旅の僧が念仏を唱えると竜は天に舞い上がり、それきり消えてしまったのだそうです。それからこの池には毎年美しい睡蓮が咲くようになり、人々の目を楽しませるようになったとか」
 本を読み聞かせることもあるが、覚えているものを話すことも多い。普通の小学校ではまずそんなことはしないから、この私塾を開くにあたって準備したのだろうか。
「ねっ、裏の山に睡蓮の咲くお池があるってお母さんが言っていたんだけれど、このお話と関係あると思う?」
「そんなのおとぎ話に決まってるだろ。竜の池なんかすっかり干上がっちまったに決まってらぁ」
「先生、そうなの?」
「どうでしょうね……もしかしたら竜の池と地面の深いところで繋がっていたお池なのかもしれませんよ」
 いつかまた竜が来たりしないかしらん、と途端不安げになった子ども達を見て、先生は穏やかに笑っている。
「先生っ、どうして先生はこんなに沢山お話を知ってるの?」
 わたしもお家で妹にいっぱいお話ししてあげたいけど、知っているお話はもう全部してしまったの、と少女が言う。
「私は小さい頃から本を読むのが好きでした。外で遊ぶよりも、いつも色々な本を読んで過ごしていたんです。昔話や遠い国の言葉はそうして知りました」
「沢山ご本を読めば、先生みたいになれますか?」
 期待を込めた眼差しに、先生は頷きを返す。
「本を読むのはいいことです。本は知らないことを教えてくれる先生でもあり、想像力を使って別の世界に連れていってくれる案内人でもあるのですから。……けれども、本から学べることには限りがあるんです。本当の知識や面白いことは本の外の世界にある、何気ない物事が集まってできているのですよ」
 どういうこと? と首を傾げる子ども達を見て、少し難しい話でしたねと先生は微笑んだ。
「お日様の光をたっぷり浴びて育ったあなた達の中には、もうその答えの素が詰まっていますよ」
 口元は笑っていたが、先生の目には一抹の寂しさが浮かんでいた。その理由を推し量ることはできなかった。
「知っているお話を全部してしまったら、次はあなた達が実際に見たもの感じたものを話せばいいんです。それは決して本には書いていない、あなた達だけの宝物です」
 静かに口にした先生の物憂い瞳がふとこちらを見上げて、半ば無意識のように緩く笑んだ。