春の落し子〜NUUAMM 1st LP release concert〜

春の落し子〜NUUAMM 1st LP release concert〜@LIQUIDROOM 2021.05.18

 お久しぶりLIQUIDROOM、恐らく一年半ぶりくらいか。どこのライブハウスも似たり寄ったりなご無沙汰具合になってしまったが、会場にたどり着くとその変わらなさにほっとする。壁中に貼られたフライヤーだったり、小汚いコインロッカーだったり。ライブハウスの好きなところ、建物のそこかしこに音楽が染みついているところ。音楽が住んでいる家という感じのするところ。変わった部分もそりゃああるのだけれど、こういう些細な、しかしその場所の色々を吸い込んだ本質の端っこみたいなところがちゃんと残っているのを目にすると安心できる。でもいつまで残るかね。
 青葉市子もGEZANもそれぞれでは観たことがあるが、NUUAMMとしては初見。会場は前方のスタンディング部分には椅子が設置されていて、今回はギリギリでチケットを手に入れたこともあり席には座らず(まだ若干は空いていた)、入口側の立ち見エリアへ。ライブハウスで椅子が用意されている状況にも、空間の違和感にも未だ慣れない。立って聴くということが許されるのならなるべくそうありたい。椅子に腰を下ろしているとなんとなく、リズムを座面に吸い取られているような気がしてくるから…それでなんとなく中心から距離を取ってしまった。最前列の手すりにかじりついて観るライブにはいつ再会できるのだろうか。
 心のどこかでずっとあの日に戻りたいと願っている。二度と帰れないような気もし始めている。諦めたというより、もうあの奇跡には二度と出会えないという直感にも似た気配のような。度々夢に見るのは19年の渋谷全感覚祭。そう、あの日も渋谷で青葉市子とGEZANを見た。これまでの人生の中で一番美しかった夜と朝。

 閑話休題。

 M2、『EDEN』。これをずっと生で聴きたかった…特にマヒトの語りを。
「おまえの静脈をくれないか その薄い皮膚を破いてつうと引き抜くんだ 間違えるなよ 海の色に近い方さ」 無性に泣けてくる。星の落とし子、なんて言葉が浮かんできたり。
 ややノイズ混じりの単調で静かなラジオ番組と、闇夜の凪いだ水の上を滑る少し冷たい春風の音。マヒトと青葉市子の歌声はそんな風に聴こえる。青葉市子の歌い方はソロの時と然程変わりないかなという印象だが、マヒトはGEZANともソロの時とも全く違う。やや掠れた、心地よいノイズの乗った静かな音。世界に細波をたてる、凪いだ水面をふぅと吹いてかすかな煌めきを生む。とぷんと頭の先まで青い海に沈んで、そこで揺蕩いながら耳にする音。この少し痛々しい感じ、好きだなあ。削れて少しずつなくなっていく途中のような。
 マヒトの自由さが好きだ。どれだけ自分が勝手に不自由になっていたかを痛感させられる。マヒトがギターを弾くのを見ていると、その音を聴いていると、心が解けていく。不安定なゆらぎやひっかくようなノイズが私のどこかを浅く傷つけていく。その傷は新しい何かを生み出すために必要な傷で、だから心地よく感じるのだろうと思う。
 M4、『MU-MIN』。ラストの苦しい高音でギブアップとばかりに噎せ込むマヒトに笑った。ふたりの間に流れる空気が穏やかでいい。恐らくこの曲だったと思うが、ミラーボールの光が三日月型に落ちていたのもよかった。きらきらしたキーボードの音が跳ねて綺麗。
 M5、『ゆうさり』。北海道で生まれた曲だと言っていた。斜め後ろから射す橙色の光がまさに夕暮れ時のようで美しかった。ふたりの髪の向こうから透ける光の白。遠い土地の風がそこに生まれて、ステージからこちらへ向けて吹いてくるような錯覚に溺れるひととき。昨夏の北海道、野寒布岬から見た夕焼けをふと思い出したりしていた。
 M8、『Vampire』。今日いちで楽しそうにしていたふたりがとてもよかった。その場にふわりと舞い降りた形のない「音楽」という何かに代わる代わる触れて遊んでいるような。色とりどりの風船をつついて遊んでいるような。真ん中に音楽がいて、じゃれあいながらふざけあいながら紡がれる音。音楽の呼吸というか、息継ぎのタイミングを合わせられるふたりだからこそできるアンサンブルだった。破綻しそうでしない、完璧からほんの少しはみ出した揺れる心地よさ。
 途中のMCで青葉市子が「音楽への信頼」と口にしていた。私に置き換えるならば「言葉への信頼」になるだろうか。そこまで真摯になれているかな、と振り返って考える。信用できているだろうか。たぶんまだなれていない。衒いなくそう言えるまでにはまだなれていない。
 本編ラスト、『めのう』。余韻一粒まで聴き終えて、このライブのラストにはこれしかないと思った。
「わたしたちは人をやるのは初めてだから うまくはできないな 言葉はつくづくそれを助けたりはしないし それでもやはり言葉に頼って生きている でも、どうしてもこの涙の色を伝える言葉が必要なとき うたがきこえる方角を探してみてほしい ぼくらがこの銀河で迷ったら またうたがきこえる方角で 光の皮膚を破いたところで待ち合わせをしよう わたしたちはおまじないを知っている」
 これ以上の終わり方があるだろうか。正直、ここでさっぱり終わってアンコールなしでもいいくらいだった。直後のアンコールの拍手が鬱陶しく思えるほどに、深い深い海の底に沈んだ気持ちで眺めていた。浮き上がるのにもう少し時間がほしかった。
 アンコールをするのに手拍子以外の方法ってないのだろうか。私は手拍子をしないことが多い。アンコールを求めていないわけではないが、その時はまだ最後の音の余韻に溺れていたいからだ。今日もそうだった。黙っていても、しんと静かでも伝わる讃美はないのだろうか。そういう空間に行ってみたいと少し思ったりもする。

 マヒトが遅れて登場するほっこりした切り替えのあるアンコール。ふたりの自由さは見ていて飽きない。虹の青と赤が晴れた空の下で溶け合うみたいな気まぐれ。
 en2、『やくも』。覚えてるから大丈夫! と譜面を貸しておきながらちょくちょく後ろから覗き見しにいくマヒトが愛おしかった。アンコールは終始ほっこりモード。
 どのタイミングだったかはっきり覚えていないが、最後の方に青葉市子が「音楽がないと死ぬ」と言っていたのがよかった。音楽と戯れるために生まれてきた人たちがただ純粋に音楽に触れていられる世界であってほしいと思う。

 その場で聴きながら、見ながら、そして帰ってきて思い出しながら、沢山の言葉が頭の中を飛び交うのだけれどどれも上手には着地してくれない。綺麗だ、と思ったことをただそのままの形で吐き出して残して定着させておきたいのだけれど思うようには捕まえられない。いつも逃してばかりいる。それがもどかしい。欠片だけでもどうにか残しておきたくてこうして拙いながらも書くのだが、本当はこんなものではない。もっと、もっと溢れて止まない。感じた美しさを丁寧に表す力がほしいと思う。思うばかりではできないままなので、ため息をつきながらもひとまずできる限りでどうにかしてみたりする今日このごろである。いつかもっと自由になれたらいい。
 美しいと思えるものが私の周りに溢れているうちは、それをできるだけ吸収して内側を満たして生きていきたいと思った。今日の音楽はきっと深い海の色をして身体のどこかに落ち着いた。海月になった気分で家に帰った。