4 キルアウト - 1/5

 混沌カオスがすぎる、と人は言った。何もかもを飲み込み過ぎてはちきれんばかりになったこの街は、最早ぱちんと弾けて消える以外では正しくなれないのだと。
 無計画に無秩序に作られた建物、それらの間に偶発的にできた隙間を道と呼んだ結果、どこへ向かうわけでもない人と生活が流れを生みはじめた場。有象無象が集まって埃色になった、ここはそんな街だった。誰かにとっては人生のいっとき佇むだけの流浪の宿、または金を稼ぐためのビジネスの場、または行き止まり、終の住処。誰もが他人に興味がなく、己の命を繋ぐことだけに必死で、それゆえ悪意も痛みもなく自分以外の存在を蔑ろにできた。
 ここで生きていく他はないと、誰もがわかっている。日の差さない路地裏で死に場所を見つけ損なった猫のように果てるか、誰かに後ろから一瞬のうちに奪われるのを無意識の底で期待するか。あるいはいつの日にか、街とともに粛清されまっさらにならされるのをただ傍観して待つか。「いつでも出ていける」なんて歯触りのいい言葉は、霧の向こうの幻想だ。
 自分もまた、妄執に蝕まれたうちのひとりだった。この人生は決して特別ではない。特別だと信じられた愚かで美しい若さはとうに失われてしまった。尤も、それさえも幻であったのかもしれないが。
 再開発によって建てられた高層ビルの前で足を止めた。見上げれば、航空障害灯の赤い光が霞んで浮かんでいる。その向こうにはやはり同じように霞んだ白っぽい夜が、狭い空を均等に塗り潰していた。
 たった二十五階建てのビルを「高層」と呼んでありがたがるくらいにこの国は貧しい。平和で民主的な経済的先進国家を造るという立派な建前を掲げられ高揚させられ、高みの見物を決め込む勢力に精神性までもどっぷりと支配されたこの国の人間に未来はない。本物の民主主義に触れる機会ごと奪われて、貧しいままで搾取され続ける。
――あの人はいつも苛立ち混じりにそう吐き出しては、一日につき一つ、ときには二つ煙草の空き箱をこの世に生み出していた。
 大通りのネオンの煌めきに押され、路地は一層暗く沈んで見える。この街は国の縮図のようなものだ。どんなにきらびやかに取り繕ったところで、この闇が消えない限りは何も変わらない。
 暗闇でしか生きられない人はどうする? とふと思った。清浄な光に呑まれて消えるか、その光が生んだ新たな影に身を潜めるか。どちらにせよロクなものではない。
 一歩踏み出した足が、転がっていた何かを蹴飛ばした。カシャンと儚い音を立ててぬるいアルコールのにおいが漂う。夜目は利く方だから、踏み出す直前にそこに物体があることには気づいていた。つまらない破壊衝動に一瞬呑まれただけだ。
 ビル風でうるさくはためく朽ちたシャッターの並びに身を隠すように、重い鉄製のドアがひとつ。鍵はかかっていないが、人を拒絶する気配に満ちていた。このドアにだけは低俗なチラシも悪趣味な落描きもなく、まるで別世界への入り口のようにも見える。ここが誰の所有物件なのかを知る者は、いたずらに手を出そうなどとは考えない。最悪落描きが消されるよりも先に、描いた自分の腕がなくなるからだ。
 ドアのすぐ下に転がっていた数本の吸い殻を靴先で水溜りに追いやって、蒼月は冷え切ったドアノブに手をかけた。
 鉄扉の先は地下へと続いている。