3 イニシャル - 1/2

 店の前を行きつ戻りつ、三度目でようやく心を決めて、早渕はやぶち悠貴ゆうきはドアノブに手を伸ばした。年季の入った喫茶店の入り口は、覚悟の重さに見合わずあっさりと開いた。
 洒落たドアベルの音などなく、錆びた蝶番と、年月の染み込んだ床板の軋みだけが来店を告げる。この辺り一帯はかつての戦火で一度すっかり焼け野原になったはずなのだが、この店だけはまるで半世紀以上前から変わらず存在しているかのような風情をしていた。こだわりの強い店主が焼け跡からありったけの資材をかき集め、変わり者で知られる建築家をわざわざ捕まえてきて設計させ、さらに金に糸目をつけずに舶来の調度品をしこたま投入して作り上げたらしく、戦前のどこか暢気で世間知らずな豊かさを見事に再現している。戦後に生まれ、この国が敗者に成り果てる前のことを文献や当事者の語りからしか知らない早渕の内にも、不思議と望郷の念が沸き起こった。それは遺伝子に染みついた記憶が見せる懐かしさなのかもしれない、と非科学的なことをふと考える。
 店に違和感なく溶け込み、どっしりとした存在感を放つ一枚板のカウンターの向こうには、店主と思しき古老の男が立っていた。
 店主は来客の気配に一度ちらりと顔を上げたきり、まるで興味がないといった様子ですぐに手元に視線を戻した。客よりも美しい装飾の施されたコーヒーカップが大切らしい。あまりにあからさまな不干渉と非歓迎の態度に、用があって訪れたのでなければ、店を間違えたふりをして今すぐ立ち去りたい思いが湧き起こった。
 店内には数人の客がいたが、どれも一人だった。誰かと談笑するでも書類と睨み合って神経質に仕事を片付けるでもなく、まるで彼等ひとりひとりがこの店の家具になってしまったかのように、日の暮れかかった気怠げなひとときをただ無言で過ごしている。人間よりも、深いコーヒーの薫りの方が雄弁だった。

 目当ての人物はすぐに見つかった。十人も入ればすれ違うことすら困難になる狭い店内の最奥に座る彼に声をかけるにはやや覚悟が要ったが、意を決して一歩踏み出した。
「あの、すみません。……青柳あおやぎさん、ですよね」
 カウンターの一番端、影に沈むように座っている男が顔を上げた。問いかけに否定も肯定も返さない、静かな瞳が早渕を気怠げに捉える。初対面の人間に突然声をかけられた驚きもなく、物音がしたからその方向に意識を向けただけといった風だった。
 想像していたより若く見える、というのが第一印象だった。彼の持つ中性的な雰囲気が要因のひとつかもしれない。女性と見間違えることはまずないが、ステレオタイプな男性らしさからも離れたところにいるように思えた。正確な年齢はわからないが、恐らく二十代半ばくらい、自分と同じか少し上ではないだろうか。
 無地のグレーシャツに闇夜をそのまま染め抜いたような濃藍のナロータイ、細身のシルエットに合ったブラックスキニーという出で立ちは至ってシンプルだが、彼の容貌と照らしてみればこれくらいでちょうどいいのだとわかる。ぱっと目を惹くほどではないが、同性から見ても文句なく整っていると思わせる面立ちに、色素の薄い長い髪を後ろでひとつに束ねた彼は、目立つ恰好をせずとも自然と意識に残るだろう。
 深い海の底を思わせる瞳が、早渕の頭から爪先までをゆっくりと廻った。いやらしさや威圧感はなかったが、視線が体の内側までじわりと滲み入ってきたかのような錯覚に襲われて、背に冷たい汗が伝う。大して興味もない店の商品をぐるりと見渡しているだけのようで、その実貴重な品物は一目で見抜いているような鋭さに触れて怖気が走ったのだった。
「あの、」
 これくらいで早々に根負けしてもいられない。しかし続けようとした言葉は小さな音に遮られた。男が右手に持っていたカップをソーサーに戻したのだ。
 まだ中身の残っているカップの側に半分に折り皺のついた紙幣を置き、男はカウンターへ向けてご馳走様、と声をかけた。柔らかな低い声だった。店主は慣れた様子でひとつ頷いた。
 椅子の背にかけていたコートを片手に男は立ち上がると、呆気にとられる早渕の横を一足で通り過ぎた。古い木と香薬を混ぜ合わせたような、どこか異国めいた微風がよぎる。
「……え、あっ、待ってください!」
 あまりに無駄のない鮮やかな所作に、黙殺されたのだと我に返って気がつくのに時間がかかった。
 呼びかけても男は足を止めてくれない。数人の客が何事かと迷惑そうに顔を上げたとき、彼の姿は既にドアの向こうにあった。
 慌てて店を出る。数軒先の建物の陰に消えるシルエットが見えて、早渕は猛然と追いかけた。

 角を曲がりかけて突然体がつんのめった。影の中から伸びる冷たい手が、早渕の腕を掴んでいた。
 あ、と思う間もなく駆ける勢いそのまま路地に連れ込まれる。足がもつれて転びかけたが、掴まれた腕を引かれてよろよろと空足を踏むに留まった。
 咄嗟に振り解こうとしたが敵わなかった。状況もわからぬまま、さらに強く引かれて背中が壁にぶつかる。日の差さない路地は前後感のない薄暗さに支配されていて、距離感が掴めない。混乱も相まって、すぐ目の前さえよく見えない。
「はじめまして。ご新規の情報提供の方ですか? それとも取材の申し込み?」
 早渕の腕を掴んだ男はくすりと笑って言った。
 声音だけは純朴そうな、害のなさそうな色をしているが、明らかに演技だ。言葉とは裏腹に隙がなさすぎる。
 押さえつけられた腕にじわりと圧がかかる。手の甲がざらつくコンクリートに擦れて鈍い痛みが走った。
「離して、ください」
 真綿で絞めるように、とはまさにこういう状態を指すのだろう。片腕をとられただけ、それも手首を掴まれただけだというのに一歩も動けない。
 相手は細身の男一人、それに大通りからたった数十歩離れただけ。抵抗して暴れることも大声を出して助けを求めることもできるはずなのに、掠れた声で懇願するのが精一杯だった。少しでも逆らう素振りを見せようものならどうなるか、想像が先行して身体をその場に縫い止めていた。
「あんたの顔には覚えがない、少なくとも俺が青柳と名乗るときにはな」
 そう簡単に騙せると思うなよ。男は低い声で囁いた。今度は演技ではない。棘々しくはなく、しかし大声で恫喝するよりも人を思い通りに動かす力を持っていた。まるで役者のように、たった一言発するだけで周囲の空気ごと一瞬のうちに変えてみせる。彼は暴力に訴えず人を屈服させる術を心得ていた。
 早渕より頭半分ほど背の高い体を屈めて、彼はわざとらしく真正面から早渕の目を覗き込んだ。
 ようやく暗がりに慣れてきて顔がはっきりとわかる。真っ直ぐに射貫くような瞳は意外にも凪いでいた。底知れぬ海溝のような不穏な静けさがどこまでも深く横たわり、身を竦めた早渕の意識までもを呑み込もうとしていた。
 男は右手を不自然に背に回している。その手に握るのは刃物か、それとも拳銃か――
 本能的な恐怖に耐えかねてついに膝が崩れた。無理矢理に引きずり起こされるかと思ったが、男はあっさりと掴む手を離すと一歩下がった。
 右手は空だった。はったりか――安堵すると同時に心臓を直に握られたかのごとき圧力から一気に解放されて、早渕は這いつくばって情けなく喘いだ。

 男は早渕を痛めつけたいわけでも、接触してきた理由を吐かせたいわけでもないらしかった。単なる気まぐれ、戯れはもう充分とばかりに、抵抗の意思を手放した早渕をこの場に放置して、何事もなかったかのように通りに引き返そうとしている。
「待って、ください……!」
 どうしてもこの機会を逃すわけにはいかなかった。これを逃せば用心深い彼はしばらく姿を現さなくなるだろう。それだけで済めばまだいい方で、もしもこちらを危険だと認識すれば、裏から何らかの手を回す可能性もある。後々他のやり方で接触することもできなくはないが、それなりのリスクは覚悟しなければならない。全くの初対面、相手にとっては何の情報もない、不意打ちにも等しいチャンスはこの一度きりだ。
 早渕の必死の呼びかけに男は足を止めた。しかし振り返ることはなく、次の出方を見定めるかのように沈黙している。早渕がどう動いたところで、背を向けたままでも十分相手にできると言わんばかりの余裕も見えた。
「貴方の力が必要なんです」
 言うなれば彼は鍵だ。光のない世界を渡って向こう側へと泳ぎ着くための、唯一の燈火。
 「早渕悠貴」という人型の容れ物の中にどういうわけか生じて根づいた、常人の枠でくくれない思考や精神。明らかに正常から逸脱していながらも特には生きづらさを覚えなかったどころか、どちらかというとあらゆる面で有利に働くことの多かった、一般的価値観に完全に擬態した異常性。
 どうして自分は違うのか? 何をもって「異常」と定義するのか? 早渕はただ、この世界に星の数ほど存在する「本物」にひとつでも多く触れたいだけだった。確かな手触りが欲しかった。もっと言えば、世界の真相をこの手で暴いたのだという充足感が欲しかった。
 確証はない。そもそも早渕の求める「本物」は形を持たず、それゆえ確かに存在しているという証明も叶わない。
 しかしこの情報屋は知っている。
 彼の持つものは、彼が今もなお求める真実は、早渕の生まれてこのかた満たされたことのない欲求を埋めてくれる手がかりになる。
 そう確信したからこそ、彼に接触しようと決めたのだ。
「人を、探しているんです。貴方にしか頼めない。お願いです、話だけでも、どうか」
 そう投げつけた瞬間、決して揺らがないとみえた目の前の背中に、ふっと感情が過った。
「その相手は探されたくないのかもしれない。あんたの厚かましさに呆れ返ってな」
 情報屋は静かに言葉を返した。かつての自分と似た存在に偶然行きあって一瞬過去を思い出したような、ぽつんとした寂しさが見えた気がした。
「見つけて――どうする? 二度とどこにも行けないように束縛するか、洗脳するか、それとも――」

 殺したいか?

 情報屋は振り向くと、ほとんど聞こえないくらいの声で、しかしはっきりと言った。カツン、とわざと音を立てて、早渕の方へと一歩踏み出す。
「僕はただ、真実を知りたいんです」
 早渕はもう怯まなかった。